顧問 福田 利夫

第1回「はじまりのはじまり」

2016年(平成28年)もあっと言う間に8月を迎えた。最近の定期検診でも数値的に問題を指摘されたものもあるが、なんとかおしなべて年齢的にそれなりの状態を保っているようで、まだもう少し命長らえることができそうである。「前期高齢者」と言われる年になってみると、過去を振り返ることが多くなり、あの時はこうすればよかったと思うことも多々あるものだ。青島顧問の「思い出すまま」にはとても及ばないが、創設以来50余年を迎えた日本乳容器・機器の歴史のなかで関わった約10年につき、私の視点から記すことが読者の方々の興味を引くことができれば幸いである。なお直近の未だ「生臭い」ことは書けないし、協会関係者以外は実名を伏せる青島顧問のルールは踏襲させて頂くこととした。


2002年(平成14年)に話はさかのぼるが、当時私は日本テトラパックでコミュニケーションズを担当していた。本来不可算名詞のコミュニケーションにSが付いているのは社外向けと社内向けの双方のコミュニケーションをやりなさいということで、社外では広報誌の編集やホームページの管理、社内向けでは本社から送られてくる方針の和訳や社長の全社員向けのメッセージ原稿の作成や、イントラネットを使った社内伝達、そして社内報の編集と社内、社外を問わず多様な情報の交通整理的な仕事を3人のスタッフと行っていた。この種の仕事は具体的に関わっている部署やマネジメントの方々との各種の調整が必要で、その意味で営業、マーケティング、製品計画、品質保証、環境等、色々な領域を経験させてもらったことがこの仕事の糧になっていた。また特に勉強になったのは当時の日本テトラパック山路敬三元会長の「鞄持ち」で、大手新聞の環境ジャーナリストや、日本のトップ企業の環境担当の責任者の方々と企業の枠を超えた交流は大変良い経験になった。

さて8月にそれまで日本乳容器・機器協会のコンタクトパーソンをやっていた日本テトラパックのマネージャーが退職することとなり、他の協会等の窓口的な業務も行っていた私が引き継ぐこととなった。なにも分からないままに前任者に連れていかれたのが全国乳栓容器協会(当時)の法人整備小委員会という会議だった。この会議は当時の青島事務局長が進めていた、公益(民法)法人の新指導基準による定款の見直しや外部理事の選任などの作業を補佐するために設立された委員会で、青島事務局長の他に3副会長会社(当時日本テトラパック柚木社長は副会長だった)の委員から構成されていた。この8月の会議から参加したのが、元椿山会長理事(日本製紙)と私で委員長は前任者を引き継ぎ椿山氏が互選された。

なにも分からないままに参加した法人整備小委員会だが、2003年(平成15年)、2004年(平成16年)と回数を重ねるにつれ新参物の私にもこの協会が解決しなくていけない課題が見えてきた。簡単に言えばまさしく「民法法人としての整備」であって、具体的には創設以来の会長会社である尚山堂への過大な依存を減らし、協会としての活動を進めるための内外部を整備するための実施可能な手順を示すということになる。実はこれは「言うは易し、行うは難し」の典型のような課題である。今でも私は当協会の特徴を「小さくて」「まじめで」「貧乏」だと落語の3題噺のように説明するが、会員数が少なく容器包装の安全衛生については真摯に取り組みを進めているが、財務基盤が脆弱というのが当時の私の個人的な「強み弱み」分析の結果であり、またその後より深く協会と関わるようになってからの課題ともなった。

具体的には、尚山堂の本社に同居させて頂き事務局業務の殆どをお願いしているという状況から脱却し、自前の事務所を持つことや、創立以来尚山堂にお願いしてきた会長会社の就任ルールの見直しを行って新会長会社への移行を実現すること、そしてこれらにより必要となる原資を担保するための会費の見直しということになるのだがどれも一筋縄でいく問題ではなかった。ただ誤解を恐れずに言うと、この委員会での討議は私にとってとても参考になった。殆ど外資系一筋できた私には、それまでの協会運営の表も裏も知り尽くした青島事務局長や日本企業のコンセンサスの醸成のやりかたについては十分な経験をお持ちの椿山元会長理事他委員の方々は、時に原則論を声高に主張する私の発言にも耳を傾けてくれた。会議の後の飲み会もとても楽しいものだった。

さらに関連して解決しなくてはいけない、2つの「外的要因」による追加的な課題があった。まず乳栓容器協会と日本乳機器協会との「統合」に関する課題で、これは50年史に椿山元会長理事が精緻に経緯を記述されているので重複を避けるために本稿では言及をさけるが、数々の紆余曲折を経た2005年(平成17年)1月の統合まで、この件についての私の唯一の貢献は現在の日本乳容器・機器協会の英文名であるJapan Association of Milk Packaging & Machineryの提案ぐらいである。次が日本乳容器・機器協会スタート直後の定款の下部文書である規程類の整備でこの仕事が江刺家元事務局長(日本製紙)との出会いになっている。50年史では椿山元会長理事から過分な言葉を頂いているが、業務管理と数字に強くエクセルの使い手の江刺家事務局長が、時間をかけてつくられた20を超える規程の原案をほぼそのまま最終案化しただけで、強いて言えばISO14001がらみで文書管理を勉強したことがお役にたったのかも知れない。

さて最後に個人的なことに触れておかなくてはならない。私は2004年(平成16年)12月末をもって日本テトラパックを退職している。これは自分のやりたいことに人生で1回位はチャレンジしてみたいという我儘で、55歳という年齢や所属企業との「貸し借り」、言い換えればやっとお世話になった分はお返しできたかなという思い込み、またある意味で親の責任の完了である娘の卒業で「身軽」になったというような条件が整ったところへ2003年(平成15年)12月の日本テトラパック山路元会長の急死が背中を押したということかも知れない。

山路 敬三(やまじ けいぞう)
1927年生まれ東京大学理学部物理学科卒業。工学博士(ズームレンズの光学設計に関する研究)。 1951年にキヤノンカメラ株式会社(現キヤノン)に入社。中央研究所副所長、事務機事業本部長などを務めた後、1989年に代表取締役社長に就任。1993年1月米国の経営誌ビジネスウィークの注目される経営者を選ぶ企画でベストマネージャーの一人に選ばれた。1995年に日本テトラパック株式会社取締役会長に就任。2003年死去

というわけで日本テトラパック退職後も規程がらみのお手伝いはさせて頂いたが、2005年(平成17年)5月の通常総会後の懇親会で当時の臼井会長理事から過分の表彰状を頂いて、私と協会と関わりは終止符を打った。この時点ではそれから約2年後の2008年(平成20年)に再度協会との関わりが再開することになろうとは考えもしていなかった。

第2回「そして再び」

2005年(平成17年)5月の総会を最後に協会との関わりがなくなった私はたっぷりある時間を活用させてもらって、それまでできなかった勉強を始めてみたりプロジェクトベースの仕事に首を突っ込んだり好き勝手をさせてもらっていた。なかでも縁あってかなり関わったのは外務省の関連団体の仕事で、企画と予算を立てて外務省のオープンコンペに応募し、学識経験者に海外調査等をお願いして、その報告書を完成させ決算書類を提出するという一連の仕事なのだが、国際政治学の若い院卒の修士やポスドク(ポストドクター、博士号をとって現在求職中)の人たちに混じって、このプロジェクトを円滑に進行させる、「ええかっこしー」な言い方ではあるがプログラムディレクターと言われる類の仕事である。この仕事は霞が関の省庁の方々とのお付き合いのやり方という点ではとても参考になった。

この仕事が一段落しそうになった2007年(平成19年)6月のある日の夕方だった思うが、携帯に登録されていない番号から電話があった。出てみると旧知のテトラパックの人事のマネージャーからだった。「今なにしているんですか?」から始まった会話でテトラパックのコンピューターの基幹システムの入替に伴い、かなりの数の管理系のマネージャーが専任かつ期限付きで参加する新たなビジネスプロセス導入プロジェクトが始まる。そのマネージャーの不在の間、期限付きで営業業務のマネージャー職をお願いできないかというオファーだった。在職中に経験のない仕事でありかなり迷ったが、「プロジェクトに参加するマネージャーがOBのなかから私を推薦している」という有難い言葉もありやらせて頂くことにした。この仕事は2007年(平成19年)の9月から開始し、2度ほど期間延長されたが2008年(平成18年)3月に無事終了した。同じ企業で違うタイミングとメンバーで2度送別会をやって頂くという希少な体験もさせて頂いた。

実はこれが日本乳容器・機器協会との再会の伏線になっている。2007年(平成19年)11月だったと思うが、退職した社員で構成されている社友会の総会が当時の日本テトラパックの本社であり、「OBで社友会の会員だが、現在は日本テトラパックで働いている」という訳の分からない立場の私も人事部に頼まれて出席させて頂いた。総会の後の懇親会で鈴木元会長理事の隣に座った私に鈴木氏は「福田さん、僕のパシリやってくれませんかね」と独り言のように呟いた。最初は全くその趣旨が理解できなかったが後でお聞きすると、日本乳容器・機器協会の会長会社の日本紙パック(当時)が2008(平成20年)の5月で2期4年を終了し、次の会長会社を引き受ける方向で検討しているが事務局長の人選に苦慮している。ついては過去協会に関わった経験がある私に引き受けてもらえないかというお話しだった。その後はあっと言う間にお話しが進んで、福田利夫事務所としてお受けすることにした。事務局長就任前にも関西ブロック会議や、理事会にオブザーバーと出席させて頂いたり、週2回程は協会に足を運んでファイルを読ませて頂いたり、サーバーの保存されている書類を確認し、江刺家事務局次長と引き継ぎをさせて頂いたりして準備を進めた。総会と関連行事までは現事務局が準備等を行うが、新会長理事の挨拶の草稿などはこちらで準備の上すり合わせを行った。

これらの結果を踏まえて私は新会長会社への移行後の事務局運営に関して鈴木新会長理事に以下の具体的な対策を提案した。

1. 日々の業務上の処理や会議の準備を担当する事務局員が必要、但しフルタイムベースである必要はない。(これが現在でも当協会事務局運営のスーパー助っ人となっているSさんが当協会事務局に参加した発端である)
2. 事務局内での作業効率化を進めるための、コピー機、電話機の入替、パソコンの入替、台数の増加
3. ホームページやメルアドの管理を外注できる体制の確立

財政的に厳しい状況であるので当時の協会予算内で処理できないものもあったが、私自身の費用も含めて日本テトラパックに会長会社として、継続的に負担軽減の努力をすることを前提として無理をお願いし了承して頂いた。

5月の総会が終了し、日本紙パックのバックアップ期間(3ヵ月)が完了した2008年(平成20年)9月の協会だよりのなかで、8月に実施された北京オリンピックに絡めて私はこんなことを書いている。「本格的な秋の訪れとともに、今年の夏も最終章を迎えたようで朝晩の虫の音が秋の訪れを告げているようです。前事務局の方々に助けて頂いた3ヵ月もあっという間に終わり事務局として一本立ちしなくてはならない時期がやってきました。女子ソフトボールはとてもいきませんが、男子野球やサッカーのようなことにならないように、心して参りたいと思います」

最後に一般社団法人移行について触れておこう。2008年(平成20年)の2月だったと思うが、当時の椿山事務局長の依頼で厚生労働省食品安全部による平成19年度定期検査に立ち会った。これは当時の民法法人制度の一環として3年に1回行われているもので、厚生労働省の「所管民法法人」の活動状況が適正に行われているか「検査」する制度で担当の食品安全部2名の方が事務所に見え、椿山事務局長と江刺家次長が対応し私はオブザーバーとして出席させて頂いた。本旨の検査がほぼ問題なく終了しかけた時、「日本乳容器・機器協会さんは本年12月1日から施行される新しい公益法人制度の対処はどうされる予定ですか」という質問があった。実はこれが2012年(平成24年)4月1日の一般社団法人移行に向けた各種の作業の導線となったのである。

第3回「試練転じて・・・」

 2008年(平成20年)2月の厚生労働省の定期検査で当時の食品安全部の担当官からお話のあった公益法人制度改革だがその経緯は実は2001年(平成13年)位まで話は遡るようだ。「民間非営利部門の健全な発展を促進し、民による公益の増進に寄与するとともに、主務官庁の裁量権に基づく許可の不明瞭性と従来の公益法人制度の問題点を解決すること」に対する議論(当時の新公益法人制度のパンフレットから)はこのころから財務省を中心に関連省庁を中心に行われていたようだ。国債の大量発行に依る財政の悪化が問題視されている一方で、従来の枠にとらわれない社会的活動の形式としてNPOやNGOの活動が活発化している状況を踏まえ、「官」のみによる公益増進の活動がいずれは壁に突き当たることを予測し民間非営利部門の今後の役割を重視すること、これに加えて一部で問題視されていた主務官庁の裁量権による許認可の不明瞭さの解決を図り、既に「時代遅れ」になっていた民法上の公益法人制度に代わる新しい公益法人制度を立ち上げたいという趣旨は有識者会議の議論を経て2004年(平成16年)12月「公益法人制度改革の基本的枠組み」が閣議決定された。これを受け2006年(平成18年)の通常国会には関連3法案が提出され5月に可決成立し、6月2日には公布されており、2007年(平成19年)には内閣府に公益認定等委員会が設置された。そして2008年(平成20年)には関連する税制改革法案も成立し新制度は12月1日から施行されることになった。

 この新制度によると2008年(平成20年)12月1日から2013年(平成25年)11月30日までは5年間の移行期間として特段の手続きなく従来の主務官庁が監督する「特例」民法法人として存続できるが、この期間内に公益法人か一般法人かを選択して移行申請を行いその認定あるいは認可基準に基づいて内閣府公益認定等委員会の審査を受け、内閣府に依る認定あるいは認可を受けなくてはならない。もし移行期間中に申請を行なわず、また認定(公益)あるいは認可(一般)を得られなかった場合は解散とみなされ法人格が消滅するということとなった。なお詳細は省略するが認定(認可)基準のなかに公益目的事業という規定があり「別表に掲げる23種類の事業のいずれか」であり「不特定かつ多数のものの利益の増進に寄与するものであること」の両方を満たすことが求められており、一般法人であっても移行前年度の繰越金の総額を申請時に公益目的事業計画と共に内閣府公益認定等委員会に報告し、認可後は毎年度公益目的事業の実施状況について報告が求められることなっていた。現在の当協会のオープンセミナーはこの公益目的事業として実施しているものである。

 かなりの時間をかけてこの制度と移行に関する必要事項等につき理解した上で感じたことは第三者的に「総論」としてみるとなかなかよくできた仕組みだと思ったが、協会の移行手続当事者として見ると「これは大変なことになったな」というのが正直な感じだった。「小さくて、貧乏で、まじめな」当協会は専従の事務局員が何人かいて、経理の担当者もいるような規模の協会ではなく、だからといって特別扱いなぞして頂けないこの移行手続を、「各論」としてはこの時期の事務局長という立場として「試練」と受け止めるしかないだろうと思った。ただ同時に感じたのは、この試練を活かして以前から私自身が感じていた当協会のある種の「停滞感」を打破し今後の協会のあるべき姿を議論する機会として活かせないかという思いだった。

 まず2008年度(平成20年度)は法人整備小委員会(後に事業企画小委員会に改組)に一般あるいは公益の選択について議論して頂くこととし、事務局としては議論のために必要な情報提供として一般・公益の選択のメリット・デメリットの比較表、お付き合いのある他の民法法人の検討の方向性に関するヒアリングの報告、そして民法法人制度の移行に関する情報の提供に努めた。そのなかでの結論として、公益法人への移行は当協会にはハードルが高く移行そのものは「ちからわざ」で可能としても、移行後の公益認定等委員会の定期的な監査などへの対応や、一般から公益への移行はOKだが公益から一般への移行はNGという一般社団法上の問題もあり、まずは一般への移行という方向性が見えてきた。並行して協会組織の見直しを行い、技術統括委員会の定款上の専門委員会化(技術的事項の意思決定機関としての役割の明確化)、事業企画運営委員会正副委員長会議の新設(協会運営に関する俊敏な意思決定)などを取り纏めてもらい、答申として全委員名で事業企画運営委員会に報告するという形式にした。これにより理事会、あるいは必要に応じて総会において採択して頂き、当期の議論の結果は次期に反映されるという流れがその後も確立されることとなった。

 この答申に関わって頂いた委員の皆様は江刺家委員長(日本紙パック)、清水委員(岩井機械)、渡辺委員(日本テトラパック)、向井委員(四国化工機)、船橋委員(東洋製罐)、横尾委員(尚山堂)、多田委員(東罐興業)であり、事務局からは私が参加し、その作成したたたき台をベースに議論して頂いた。その結果2009年(平成21年)3月1日付けで以下の骨子の答申がなされている。

改正公益法人制度においては一般法人選択が望ましい
附帯事項
1 短期的には上記の選択を念頭におき準備を進めるべきである。但し今後も公益法人制度に関する検討を継続し、中長期的には一般法人から公益法人への移行の選択肢も視野に入れておくべきである。
2 改正公益法人制度に対する対応はその選択だけで終了するものではなく、今後の当会の将来像を含めた議論の第一歩と位置づけるべきである。

 この答申を事業企画運営委員会、理事会、最終的には総会で採択して頂いた。またその具体的な移行手続きについては、会費制度を含めた当協会の将来像も含めた事務局案を2009年度(平成21年度)法人整備小委員会(後の事業企画小委員会)で議論の上同年度末に目途に答申を再度上げて頂くことも了承された。

 とりあえず方向性だけは見えたわけだが、ここから2012年(平成24年)4月1日の正式移行まではまだ紆余曲折が続くこととなるわけである。

第4回「楽あれば・・・苦あれば・・・」

新生日本乳容器・機器協会に向けて

2009年(平成21年)3月の法人整備委員会(後の事業企画小委員会)の答申と同年4月の理事会、そして同年5月の総会の承認によって一般社団法人への移行の方向性は決定したがその具体的なプロセスと日程については、2009年6月以降の同委員会での議論に委ねられ、そのたたき台の作成は前年度の答申と同様事務局が担当した。まず委員会における議論の土台作りとして、協会が果たしてきた技術的役割について杉山(日本テトラパック)、辻井(日本紙パック)両技術委員、青島元事務局長には過去の会費改定の背景や経緯そして椿山元事務局長(後に会長理事)には乳機器協会との統合の経緯を委員会の席上でプレゼンして頂いた。新たに参加された方が多かった委員会のメンバーに、まずは当協会の過去の活動を知って頂くことで、将来のプランの策定に役立たたないかという目論見だった。
一方で事務局のたたき台ペーパーという形で、今回の移行を単なる移行ではなく「新生」日本乳容器・機器協会の足がかりとするために当協会のSWOT(強み、弱み、機会、脅威)分析の活用とその材料として、当協会全会員へのアンケートと絞りこんだ会員8社へのインタビューを提案した。これはそれまでの委員会での議論が、得てして「会員の協会の種々の活動に対する印象は支払い会費以下という評価ではないか?」という危惧や「新しい施策を行うためには会費の増額が必要、しかし会費の増額は会員数の減少という結果をまねくのではないか。」という負のスパイラルの議論を打破したい意図と、この段階であるからこそ、会員の率直な活動の評価と今後に関する要望を正しく把握するべきと判断したからである。
この提案は委員会での議論を経て、正副事業企画委員長会議で承認を受け、会長理事名で正式な依頼という形で実現し、同年10月から11月にかけて実施された。インタビューについては当協会の活動に各委員会への委員の派遣というような具体的な形で関わって頂いている会員から4社、そうでない会員から4社という形でバランスを取り、インタビューは私が行った。結果はこの手の質問には日本人は一般的に「差し障りのない」返事をする傾向があるというバイアスを引いても、評価は一部委員の危惧にも関わらず、おしなべて高く、特に乳等省令に関連した技術的知見の高さや、関連する情報提供力については今後も期待するというコメントが多かった。このインタビュー及びアンケートの個別具体的な結果は公表しなかったが、総論としては事業企画小委員会での議論を経て平成21年度答申には反映させた。

一般社団移行に向けたトライアンドエラー

一般社団移行に向けたトライアンドエラー

ここで少し特例民法法人(当協会は当時これに該当している)と一般社団法人の財務管理の違いについて私見を述べておきたい。特例民法法人とは2013年(平成25年)11月30日までの従来の民法法人、つまり社団法人日本乳容器・機器協会が一般社団法人日本乳容器・機器協会に移行するまでの「猶予期間」と考えて頂ければよい。財務的にはこの期間の間に今迄の「予算主義」つまり予算を立ててこれを正確に執行するという行政官庁的な手法から、企業会計に準じた損益計算書と貸借対照表をベースとした管理に移行を求められたわけだが、それまでの民法法人では予算を未消化のまま繰越金として「ため込んで」いることは税務上の優遇措置からいっても問題とされ、例えば厚生労働省は2010年(平成22年)11月、N厚生労働大臣の時には食品安全部長名で、管轄の全ての特例民法法人宛に「特例民法法人の内部留保の水準の適正化等について」という文書を発出し、そこでは正味財産期末残高÷経常費用の指標である内部留保率が30%を超えている法人にはその解消方法を2011年12月までに報告を求めている。

ところが一般社団法人移行後は企業会計に準じて、収益性と流動性を改善することはむしろ必要なことであるから、健全なレベルの内部留保率は問題にならずむしろ望ましいことである。つまり内部留保率の評価のポジネガは一般法人移行前後でまったく逆転するわけである。そして民法法人時代に「ため込んだ」内部留保は承認を受けた公益目的事業に振り向けることが求められるが、移行後の健全な内部留保レベルは「正当な企業努力」の結果として望ましいということになる。従って現在内部留保率は協会の財務上のパフォーマンスの指標として使われている。
前年度の一般社団法人への移行方針決定を受け、担当官庁である内閣府公益等認定委員会の担当官と面談やメールよる打合せを開始したわけだが、そのなかで判明したのは当協会の財務上の舵のとりかたの難しさだった。まず当協会は「貧乏」と表現したように財務基盤はかなり脆弱である。当時の年間収入規模は殆どが会費で850万円から950万円程度でその殆どが会費収入だった。私が事務局長時代は、お恥ずかしながら、単年度決算は殆ど赤字であり、その赤字の補填は2005年(平成17年)の日本乳機器協会との統合時の寄付金約300万円を少しずつ取り崩してきたというのが実状だった。
そのなかで当協会が2008年(平成20年)度から「爪に火を灯す」思いで行ってきた50周年記念事業のための特定引当資産、そして協会創設時に必要とされたとされ、そのまま綿々と継承されてきた基本金83万円まで、このままでは公益目的財産額に含まれ、公益目的事業として支出が求められる金額に含まれるということが判明した時は、正直「小さくてまじめで貧乏な」当協会が何でこんな仕打ちを受けなくてはいけないのかという気になったりもした。
つまり内部留保をなるべく減らすというという現行の民法法人に課せられた課題と、単年度赤字の脱却というある意味で「うらはらな」課題の両方を達成しながら、移行後の公益目的事業の原資も確保しつつ、かつ50周年記念行事も実施しなくてはならないというトリレンマに対する取組が求められたわけである。

「苦あれば・・・・」

当協会をとりまく環境の変化とそのための対応の選択肢

しかしこういった状況を嘆いていてもしようがない。これらに対する施策を盛り込んだ事務局案を事業企画小委員会で議論して頂き、2010年(平成22年)3月に下記の内容からなる2009年度(平成21年度)答申として取りまとめた。

1. 当協会をとりまく環境の変化とそのための対応の選択肢

当協会の外的環境が大きく変化するなかでこの機会を捉えて当協会の一般社団法人移行後の「あるべき姿」を縮小、現状維持、拡大の3つの選択肢を具体的に挙げたうえで、会員におこなったアンケートやインタビューの結果を踏まえて、一般社団法人移行までは現状の維持及び改善に努め、移行後は拡大を図るべきとした。

2. 2010年度(平成22年度)以降の一般社団法人移行への手順

―2010年度(平成22年度)に現行の特例民法法人としての定款を変更して不特定多数への普及活動を可能にする。これは特例法人時代から公益目的事業を行い、一般社団法人移行後も継続事業として行うことを可能にするためである。特例民法法人としての定款変更なので理事会、総会の承認のうえ厚生労働省に認可を受ける。
―公益目的事業として2010年度(平成22年度)からオープンセミナーを実施し、継続事業として一般社団法人移行後引き続き実施する。
―一般社団法人への移行認可申請を2011年度(平成23年度)に行い2012年度(平成24年度)から一般社団法人に移行する。

3. 財務基盤の強化と会費制度の見直し

―第1段階としては即効性のある基本金の取り崩しを可能にする基本金規程等の創設を行い可処分資産の増加を可能にする。会費規程を改正し賛助会員の入会金を廃止し入会しやすくしたうえで、2010年度(平成22年度)には密接な関係のある業界団体や会員共通のお取り引き先をフォーカスした賛助会員誘致活動を行うことで結果的に会費収入の増加を図る。
―会費制度改定については2011年度(平成23年度)には行わず、2012年度(平成24年度)の一般社団法人移行時からの実施を目標に事業企画小委員会でその内容について議論を重ねる。

4. 乳機器部会の活動の強化

―オープンセミナーの開始に伴い乳機器部会独自の少人数ラウンドテーブル方式の会費制のセミナーを創設する。

5. 50周年記念行事

―2011年(平成23年)11月に迎える当協会の50周年記念行事は平成2012年(平成24年)に予定される一般社団法人として初の総会と同時開催とする。またこの総会で2期4年を終える現会長会社から新会長会社への交替を行う。
―50周年行事引当資産の管理規程を新設し2010年度(平成22年度)から適用する といった内容で他にも「継続性のある協会運営体制ルールの構築」、「会員に対する情報提供活動の向上」、「広報活動の強化による当協会の存在感アップ」を含んだ盛りだくさんな答申を平成22年3月に事業企画運営委員会に提出した。その承認を受けた後理事会、総会において採択して頂いた。若干のメンバーの交代はあったが、事業企画小委員会の皆さんとは事務局案をチェックして頂いて、その後その内容を反映させた再校で議論するという作業を最終の「てにをは」まで含むと10回近く繰り返した。この答申が当協会の一般社団法人移行とその後の当協会のグランドデザインを示したもの、そしての作業の進捗管理の具体的なマイルストーン(里程標)もとなりえるのではないかというのが私の目論見だった。

第5回「ルビコン川を渡る」

ルビコン川を渡る

この言葉はローマの共和制末期にジュリアス・シーザーが元老院の命令に背いてルビコン川を「賽は投げられた」と言って渡りローマに攻め込んだことから、後戻りのできないような重大な決断・行動をおこなうことを意味しているようだが、2009年(平成21年)度の事業企画小委員会の答申と関連する議案の2010年(平成22年)5月26日に開催された総会における採択は日本乳容器・機器協会にとってまさしく「ルビコン川を渡る」ことだったと思う。もう後戻りはできず、事務局はこの答申の進捗を具体的に進めることが求められていたわけで、個人的にもここから2012年(平成24年)4月1日の一般社団移行までが胸突き八丁の時期だった。

公益目的事業

ここで前回も触れた公益目的事業についてもう一度おさらいをしておきたい。公益目的事業とは公益法人認定法第2条第4号の規定に依れば、内閣府公益認定等委員会が「個々の事業が別表各号の23項目のいずれかに該当しているか」を検討したうえで、かつ「特定多数の者のみの利益増進になっていないかどうか」を検討して判断することとなるとされている。ちなみに当協会のオープンセミナーは別表六の(公衆衛生の向上を目的とする事業)に該当し、当協会の現行定款第4条(2)及び(3)で規定された普及啓発事業である。この事業は旧社団法人時代にはなかった「普及啓発」の文言をいれた書きぶりに特例民法法人時代の旧定款第3条及び4条を変更することで、「旧主務官庁(厚生労働省)の監督下の公益目的事業」として実施することを可能とし、一般社団法人移行後もこれを継続するかたちで「継続事業」として実施されているわけである。2009年(平成21年)末から2010年(平成22年)初頭にかけ、厚生労働省の担当官、内閣府公益認定等委員会の担当官に非公式に書きぶりのレビューを受けた上で、2010年(平成22年)5月26日の総会で承認して頂き、登記を行い同7月12日に厚生労働省から認可を受けた。これによりこの2010年(平成22年)度からの特例民法法人として公益目的事業の実施が可能となった。従って公益目的事業としてのオープンセミナーは特例民法法人時代に2回、一般社団法人時代5回実施されており、今年度の第8回で公益目的事業としては支出が終了する。最初の「言いだしっぺ」としては感無量である。

オープンセミナー

実はその具体的な内容については2010年(平成22年)年初から検討を始めていた。同年5月18日の事業企画小委員会にはたたき台として日本乳容器・機器協会第1回オープンセミナー企画書(仮)を提出し、討議して頂いた。具体的な内容としては、まず参加対象を公益目的事業の趣旨に則り、ホームページからの不特定多数の応募を可能とすること、参加人数は80名から100名とすること、第1回テーマは「企業と消費者にとって真の安全と安心とはなにかを検討する。」とすること、厚生労働省担当官を来賓として迎えスピーチしてもらうこと、会場は従来の「業界団体色」を避けセミナーやコンフェレンスの専門会場の東京コンフェレンスセンターとすることなどを提案し、概ね同意を得た。

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スピーカーはグローバルな経験があり、当時内閣官房や消費者庁の法令遵守顧問を務めていた弁護士の國廣正氏と消費者と企業の品質問題に関する(特にメディアとの)コミュニケーションの観点からのスピーカー1名とし(後に毎日新聞記者小島正美氏に決定した)これをベースに準備を進めていくこととした。実は國廣氏とは全く面識はなかったが、同年日経ビジネス4月19日号の「今週の視点」での企業の危機管理の観点からの当時のトヨタ自動車や花王エコナのリコール問題に対しての発言が非常に示唆に富むものであったので、事務所のホームページの問合せ欄から当協会の概要とオープンセミナーの趣旨をメールし、その後面談させて頂いて、講演の了承頂いたという経緯であった。一方の小島氏については、発酵乳乳酸菌飲料協会のセミナーでの講演を拝聴させて頂き、当時の森田専務にご紹介頂いたように記憶している。このように7回のオープンセミナーの内私は5回程その企画に参画させて頂いたが、スピーカー探しはたいそうな言い方で恐縮だが、広く「アンテナ」をはり「知的好奇心」を絶やさないというモットーで行ったように思う。

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なお当初は無料開催で考えていたが、事業企画小委員会での議論のなかで「他の行事の有料化や参加費の上方調整のなかでオープンセミナーだけを無料というのは整合性に欠ける」という論点からシンボリックだが¥1,000の会費を徴収することとした。
第1回オープンセミナーは2010年(平成22年)11月18日に開催され、100名近くの方が参加し、会員外の参加者の割合も高く成功裡に終了し、その後のオープンセミナーの「基本形」とすることができた。参加者に行ったアンケートの評価も高く、来賓の厚生労働省担当官も最後まで席を立たず、コーヒーブレイクでもスピーカーや鈴木会長理事と懇談して頂き、企画担当者冥利につきる成果をあげることができた。

乳機器部会懇話会の開催

前年度の答申の「乳機器部会独自の少人数ラウンドテーブル方式の会費制セミナー」は2010年(平成22年)10月22日に第1回乳機器懇話会として6社13名参加で具現化した。第1回幹事の岩井機械の方々には「講師の選定などの懇話会の内容は幹事会社、アゴ、アシ、パシリは事務局」という、通称事務局長ルールを図々しくご了解頂き大変なご尽力を頂いた。その成果でこちらもその後の乳機器懇話会の「基本形」とすることができた。

賛助会員増強活動

事業企画小委員会のメンバーの方々の絶大な協力を得て2010年(平成22年度)年度末には9社3団体の12会員の新規加入を実現することができた。事務局は当協会が賛助会員とさせて頂いている日本乳業協会、全国発酵乳乳酸菌飲料協会、全国飲用牛乳公正取引協議会の3団体を担当し、当協会の賛助会員になって頂けないかというお願いを差し上げ、快く受諾して頂いた。当時の日本乳業協会の専務理事に、鈴木会長理事名の文書持参でお願いに上がった時、当協会の賛助会費が日本乳業協会の賛助会費の2分の1であることが話題になり、つい「半返しでお願いできかないかと・・・」と口を滑らせたところ大笑いとなったことなどは今から思えば良い想い出である。

「日本乳容器・機器協会の会費制度及ぶ関連する諸制度に関する答申書」

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 それ以外の事項についても事業企画小委員会で議論を重ねた。3回目の答申となるのでPDCAの回し方も軌道に乗ってきて、2011年(平成23年)3月22日付の2010年(平成22年)度答申に向けて、以下の項目立てで書きぶりを含めた最終確認を進めていた。

1. 答申の背景
2. 当協会の事業及び財政規模
3. 会費制度全般にわたる提言
4. 一般法人への円滑な移行
5. 継続性のある協会運営の確立
6. 情報公開による情報の透明性の向上と会員に対する情報提供活動及び非会員に対する普及啓発活動の強化
7. 50周年行事
しかし、ここであの3月11日を迎えることになるのである。

第6回「災害は忘れたころに・・・・」

2011年(平成23年)3月11日14時46分18.1秒(JST)

 この日私は日本乳容器・機器協会事務所で事業企画小委員会の3月22日付の答申の「てにをは」等の最終チェックを行っていた。その以前の中小規模の地震の続発に「いやな感じ」がしないわけではなかったが、3月24日の正副委員長会議におけるプレビューと続く3月29日の事業企画運営委員会が当該答申の「正念場」ということもあって、その準備作業に忙殺され、「いやな感じ」を頭の隅に片付けてしまっていた。
 揺れが始まった途端、これは尋常な程度ではないと感じたが、いつもは冷静な事務局のSさんが事務所の会議用のテーブルの下から、「福田さん」と大声で叫んでくれて、同じようにもぐり込んだ直後に茶器などを入れた戸棚が倒れたりガラスが割れたりし始めた。乳業会館の各階の事務所からも悲鳴やガラスの割れる音が聞こえ、これは大変なことになったと思った。
 なんとか初期の揺れが収まった後Sさんがすぐテレビのスイッチを入れてくれたが、そこに映しだされたのはすぐ近くの九段会館の天井崩落と東京湾のガスタンクの火災で、東北の悲惨な状況はまだ報道されていなかったと思う。緊急事態なのでまずは家族と連絡を取ろうとしたが、通常回線も携帯も全く通じなかった。Sさんのほうは大阪のご家族やご主人から受信があったが、私の方は受発信ともだめで、とりあえず目いっぱい携帯の充電をして機会をまつことにした。
 後で聞いたところによると九段下の一帯は比較的地盤がよく、建物のなかで状況を把握しながら待機するという選択肢は結果的にベストだったようだ。17:00を過ぎたあたりで交通機関が全く動いていないことを確認し、Sさんとワレモノの片付け、余震の被害防止策を実施し、Sさんが歩行経路をネット上で確認してくれたので、とりあえずの共通の目的地である渋谷を目指して一緒に歩きだした。しかし道路は同じような考えの人々で一杯の状況で通常より時間がかかり、渋谷に到着したのは20:00前と思う。
 ここでSさんと別れ、自宅についたのは20:30頃だったと記憶している。家の明かりがついていることにほっとして自宅のドアを開けると、それまで全く連絡がとれなかった妻と娘がそれぞれ少し前に勤務先から徒歩で到着したところだった。Sさんからは23:00近くに無事自宅到着のメールをもらった。テレビは東北の悲惨な津波被害の状況を繰り返しており本当に長い1日となった。

混乱を乗り越えるために

5月2日発行の乳容器・機器協会だより
平成23年5月2日号協会だよりより   
5月2日発行の乳容器・機器協会だより

 翌日は事務所へ行かず、鈴木会長理事に携帯から昨日の報告と今後の対応についてメールを入れ了承してもらった。その後は電力の供給制限も始まったため世の中が騒然とした雰囲気に包まれてきた。  2011年(平成23年)3月24日には、予定されていたことではあるが、会長理事、副会長理事の方々に集まって頂いて、協会としての震災対応について基本線を確認し、また平成22年度答申案につき非公式の了承をとりつけた。続いて東北大震災に被災し亡くなられた方々への黙祷で開始した3月29日の事業企画運営委員会で了承を頂いた。最後に同様の手順で開催された4月12日の理事会において全出席理事一致で採択され、あとは5月25日の第50回通常総会での採択を待つだけとなった。ここで一番のポイントは恒例となっている懇親会で、巷ではI東京都知事の「この時期に花見をしている不逞の輩・・」発言もあったが、私はむしろ委縮するのではなく、当時のツイッターを賑わしていた「ヤザワ作戦」つまりロック歌手の矢沢永吉の名前からきた、今こそ経済を元気にするために委縮しないで少しぜいたくをしようという呼びかけの方向性が被災地の復旧復興にもつながるのではないかと思っていた。

5月2日発行の乳容器・機器協会だよりでは東日本大震災の被災者の方々へのお見舞いのメッセージの次に「新生日本乳容器・機器協会に向けて」の標題で事務局長名の総会採択予定の内容の紹介も行い、採択内容に関する会員の理解を深めるようにした。一方で悩ましかった懇親会については、当時の日本乳業協会の専務理事に日本乳業協会としての対応をお伺いしたところ、「変に委縮しないで、この時期こそ日本を元気にするという視点で行くべきだと思っています」というまさしく「我が意を得たり」のお返事を頂いて、細かい内容のつめは別にして懇親会も実施という方向で進めることとした。

協会事務局としての対応

 少し話が前後するが3月24日会長理事・副会長理事の会合での非公式合意に基づき事務局は以下のような具体的な対応を行っている。まず当協会の領域である安全衛生の分野で大震災に関連して会員間で共有すべき情報(例えば厚生労働省所管の製造地表示の期間限定の特例措置)については事務局から積極的に全会員に発信した。しかしながらトイレットペーパーがスーパーの店頭から消えるような事態が起こるなかで、牛乳や飲料の容器の需給に対しても、一部で不安があるような情報が錯綜し、地方自治体や一般のマスコミからの本件に関する問合せもかなりあったが「当協会の守備範囲は安全衛生であり、容器の需給について責任ある回答をできる立場にはない。」という趣旨で徹底した。今だから話せるが「電話インタビューでもよいから番組に出演してくれ」という類の依頼も複数あった。企業における危機管理の「初めの一歩」は窓口を一本化して、トークを統一することとだとというトレーニングを過去受けていたことがこんなところで役にたったようだ。厚生労働省以外の中央省庁やマスコミの大所からの問い合わせで、取扱が微妙なものについては鈴木会長理事に協会としてではなく出身企業の立場でインタビュー等の対応をして頂いた。

第50回通常総会

「復興アクション」のロゴ

 通常総会と懇親会を通じて「平常心で被災者の方々や被災地を思いやる」というトーンを強調するために、総会は開始時の参加者全員による黙祷のみならず、当時政府広報が推進していた「復興アクション」のプロモーションビデオを、参加者の方々に見て頂き、また正副会長理事や事務局メンバー、そして懇親会のコンパニオンの方々まで「復興アクション」のロゴを身につけ、その思いを形にする試みも行った。

 事業企画小委員会答申に基づく議案として、採択をお願いした基本金規程による基本金の事業費への振替、2011年度(平成23年度)の一般社団法人への移行プログラム、会費制度の改定の事業企画小委員会による検討と答申、継続性のある協会運営に向けた諸施策、50周年行事のありかたと50年史の作成、会員に対する情報提供活動と非協会員への普及啓発活動の相乗効果による協会の社会的存在感の向上等は会員全員一致で承認頂いた。

 私はこれで一般社団法人への移行とこれによる新生日本乳容器・機器協会への出発(たびだち)に関する総論部分はほぼ完了したと判断していた。しかし残されている具体的な各論部分は新定款の作成、公益認定等委員会への移行申請、財政状況の改善と会費の改定、50周年記念事業など、どれも一筋縄ではいかない課題がまだ山積みだった。

第7回「画龍点睛を・・・」

龍に瞳を入れる

 「画龍点睛」という諺の「睛」は瞳という意味で「点睛」とは動物の絵に最後の瞳を入れて完成させることを意味するようだ。中国春秋時代の梁に張という絵の名人がいて、ある寺に龍の絵を描き、最後に瞳を入れたところ、突然龍が天に昇ったところからこの4文字熟語はできたとされているが、転じて最後のつめが甘いことを「画龍点睛を欠く」というようになったようだ。日本乳容器・機器協会の2011(平成23)年度、つまり2011(平成23)年4月から翌年の2012年(平成24)年3月の1年間はまさしく「龍に瞳を入れる」作業を、但し名人などではなく常人の私は龍を天に昇らせるためにトライアンドエラーを繰り返した1年間だった。

この年度の課題

 この年度の課題をもう一度整理しておこう。
1. まず一般社団法人への移行手続きがあった。そのためには各種必要書類を整え、2011(平成23)年夏頃を目途に内閣府公益認定委員会に電子申請を行って当該年度中に内閣府から移行認可を受け、翌年度早々の登記等の移行作業に繋げなければならなかった。
2. 会費改定についての議論を事業企画小委員会で深め、小委員会におけるコンセンサスを醸成した上で、その結果に関する事業企画運営委員会、理事会における議論のための必要な資料を「納得できるロジック」で作成し、翌年度の総会で最終承認を頂くための導線とすることが必要だった。
3. 目論見通りにいけば一般社団法人移行後最初の2012(平成24)年5月開催予定の総会にタイミングを合わせて実施予定の50周年行事に向けた、50年史作成を含む種々の準備を進めなくてはならなかった。
4. 2011(平成23)年度で2期4年を終了する会長理事の交代に向けた調整も進めなくてはならなかった。
5. 最後に技術的課題ではあるが、今後当協会の立ち位置を大きく左右することになる乳等省令の見直しについての協会内の意思統一のための調整にも取り組まなければはならなかった。
どれをとっても「一筋縄」では進捗しない課題であり、また微妙に関連する部分もあり協会としてもまた個人的にもまさしく「正念場」の年度であった。本稿では一番の「力仕事」であった移行手続きについて少し詳細に述べてみたい。

一般社団法人への移行作業

 まず一般社団法人の定款案については2011(平成23)年5月25日の社団法人としては最後となった総会で一般社団法人への移行を前提として採択して頂いていた。この定款案の作成に当たっては公益認定等委員会担当官との非公式のご相談に加え、移行について先行された日本乳業協会の新定款や規程を参考にさせて頂いた。社団法人としての現行定款との比較表も作成し会員の方の理解を深める努力も行った。
併せて一般社団法人への移行によって当協会の運営に何が求められるかを以下のように説明する機会を理事会や事業企画運営委員会で頂いた。
c つまり会社法が企業に求めているものと近似していて、社員総会と理事会の関係は株主総会と取締役会と考えられる。また株主総会の「活性化」から考えれば、議案の一括採択や「異議なし」採択は一般社団法人の総会においても好ましいことではない。同様に企業においても監査役が取締役と取締役会に対して拮抗力としてその役割を求められるように、一般社団法人における監事の役割もより重要視されるようになったわけである。理事会や総会で投票記録を残し、総会における理事・監事の選任を一名ずつ採択するのはこの辺りが背景となっている。
一方具体的な申請の準備については各種の書類の準備や確認作業を事務局業務の空き時間に進めながら、内閣府公益認定等委員会に電子申請用のIDとPWの届出を行い公益認定等委員会の申請用のページにアクセスを可能にした。8月24日15:04に電子申請を行ったが、翌日には担当官(今迄非公式にご相談していた方)から直接電話を頂いて、公式に当協会の移行申請を担当することになった旨の連絡と提出書類の不備や追加書類の指示を受けるという状況で、「これはこの先が思いやられる」と感じたが、電話や面談を通して修正点や追加書類の準備を進め、10月19日には電子的に修正を行った。その後も定款の書きぶり等の指摘に対応を進め翌2012(平成24)年2月16日に「移行を相当とする」という当時の野田総理大臣宛の内閣府公益認定委員会の2月15日付答申が内閣府公益認定等委員会のホームページに公表された。
これで喜んではいられない訳で目標としていた2012(平成24)年4月1日の登記に向けての作業を早速開始した。この4月1日というのは個人的にも思い入れがある日付である。つまり登記手続き上は特例民法法人(移行前の法人)が解散登記を行い、一般社団法人について設立登記を行うこととなる。ところが事業年度の途中に登記を行うと、登記を行う事業年度を特例民法法人としての期間と一般社団法人としての期間区分した計算書類が必要になるわけである。これは移行を計画していた特例民法法人にとってはある意味「余分な」ワークロードとなるので、殆どが4月1日の登記を希望していた。ところがこの年の4月1日は日曜日だった。このまま行くと例えば4月2日に登記をすると4月1日1日分とそれ以外の翌年3月までに事業年度を区分した計算書類が必要になるということになってしまう。しかし公益認定等委員会に本件についてはかなりの数の問合せがいったようで、最終的には内閣府から法務省宛に4月1日に日曜日であってもこの移行登記の受付をしてほしいという文書が発出され、この日は特別に移行登記申請のみを受理するということになった。お願いした行政書士によると、当日は通常は行っている電子申請は中止されて窓口申請のみとなり大変な混雑だったそうである。

 図 図

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その後登記完了後の届出等を経て一般社団法人への移行手続きは完了した。
この時期は移行手続だけを進めていたわけではなく最初に述べた他の課題にも並行して取組まなくてはいけないという状況で、まさしく個人的にも正念場を迎えていたわけである。(次号へ続く)

第8回「恒産なくして恒心なし」

恒産なくして恒心なし

 「恒産なくして恒心なし」という言葉は戦国時代中国の儒学者である孟子の梁惠王編にある言葉を日本語風にしたもので、孔子の「衣食足りて礼節を知る」を発展させたものとされ、物質面での安定がないと精神的で不安定に陥りやすいという意味とされている。これをビジネスの世界に置きかえると、本業できちんとした結果を出していない企業には社会的な活動などは当然難しいということになるのかも知れない。振り返って当協会の平成23年度の状況は平成20年度から継続してきた単年度ベースの赤字は、少なくとも当該年度まで継続することが予測されており、その穴埋めは繰越金や平成23年度に実施された基本金の取り崩しで対処しているという厳しい状況で、このままで行けば近い将来に債務超過に陥るリスクも高く一般社団法人移行後の「新生日本乳容器・機器協会」には長期的かつ安定的な財務状況のベースを確立することが必須であり、その礎を一般社団法人移行と並行して作らなければならないと私は判断していた。

総論賛成各論反対

 当協会の収入はその殆どが法人会員からの会費収入であるが、その会費制度は日本牛乳キャップ協会からの長い歴史のなかで色々な経緯を経て現行の会費制度がある。その金額を「より公平」な物差しで見直すべきではないかということは、私が当協会に携わる以前から何度となく提起され実際に検討も行われてきた。しかし会費の上方志向の改定ということが伴うとなれば、「A社と比較してなぜ我社が」とか「我社の会費値上げ額(或いは幅)が多(高)い理由は」とか各論的な話に陥りがちで、またそれに加えて会費の値上げに関連して、当協会は「会費分」会員に貢献しているかという「根源的」だが「無限連鎖的」な自問自答に陥るとこの問題の解決策は見つからないことになるというジレンマも経験してきた。

一点突破全面展開

 孫子の兵法にでてくる戦略のひとつで、70年代の学生運動でもよく使われた言葉だが弱者が強者に勝利する方法で、一点に集中してそこを突破することで活路を見出すという戦法をいうが、私は会費についての議論が「無限連鎖的」な議論に陥ることを避けるためにまず拙稿第4回で述べた2009年(平成21年)に実施した協会会員へのアンケートとインタビューの結果をもって、「当協会の持っている特に技術的知見の評価は相対的に高く、これに加えて情報提供活動をこまめに継続することで当協会の活動は現在でも会員にある程度の評価を頂いており、またこの方向性の先に新生日本乳容器・協会があるという判断で一旦割り切ることにした。次にこの方向性で活動を続けるための原資を担保するための施策のたたき台をつくるために当協会の現在までの財務状況の経緯と短中期の財務状況の予測を行ってみた。具体的には平成19年度から平成23年度(予測)まで財務諸表のキ―パラメーターをとりまとめ、単年度収支の赤字による純資産の減少傾向をハイライトしてみた。その上で試みとして、平成29年度までの経常費用を平成23年度に達成が見込まれる対平成22年費用実績の96%として経費削減を図る一方で、経常収益は平成23年度予算の105%とするという前提で平成29年度(公益目的事業の終了年度)までをシミュレーションしてみた。

平成19年度からの主要財務指標の推移

  平成19年度 平成20年度 平成21年度 平成22年度 平成23年度予測
A 純資産* \7,039,166 \5,874,014 \5,621,454 \4,156,412 \3,713,856
B(基本金) (\830,000) (\830,000) (¥830,000) (\830,000) **
C(特定引当資産) ** (¥900,000) (¥1,800,000) (¥2,000,000) **
D(次期繰越金) (¥6,209,166) (\4,144,014) (\2,991,454)  (\1,326,412) (\3,713,856)
E 単年度収支 \1,224,255 ▲\2,065,152 ▲\1,152,560 ▲\1,665,042 ▲\442,556
F 内部留保率 70% 40% 32% 13% 17%
G 事業費比率 50% 53% 53% 55% 54%

短中期(平成29年度)までの単年度収支モデル

経常収益 経常費用 当期一般正味財産増減額 一般正味財産期末残高(H.29年度)
\10,029,000 \10,069,945 ▲\40,945  \1,479,816
*1 *2    
*1 平成23年度経常収益予算の約105%(△\500,000)
*2 平成22年度経常費用実績の約96%(▲\400,000)
*3 平成23年度決算予測の一般正味財産期末残高(50周年行事引当金を除いたもの)に上記
   モデルの当期一般正味財産増減額の6年分を控除したもの
*4 50周年事業に関わる予算及び費用については上記モデルから除いている。

その上で経常収益については法人賛助会員の増加、個人賛助会員(個人サポーター制度)の創設、各セミナーの有料化や参加費の見直しで増加分5%にあたる年間¥500,000のうち¥100,000を確保した上で、残り¥400,000を年会費会費の上方修正分とした。そして平成29年度、つまり公益目的事業であるオープンセミナー完了時迄は若干の単年度赤字はあるが平成29年度には¥1,500,000弱の正味財産期末残高になると予測した。つまり言い換えると総額¥400,000の会費収入増があれば、少なくとも平成29年度の公益目的事業完了までは、まだ健全とは言える状態ではないが、債務超過に陥らずに財務上乗り切れると見込んだわけである。

財務状況に関する基本アプローチ

新生日本乳容器・機器協会として一般社団法人移行から公益目的事業完了までの活動原資の確保と、債務超過の回避の必要性をご理解頂くことをこの問題の突破口とすることで短中期のこの問題の解決が図れないかという目論見だった。これらを事務局案として逐次事業企画小委員会に提示して議論して頂いた。江刺家委員長以下8名の委員には「出身企業の枠にとらわれず、協会の事業企画小委員会委員として議論として頂けないか」という図々しいお願いもした。その結果9回の委員会を経て平成24年3月15日付で「日本乳容器・機器協会の財務基盤の強化及び会費制度に関する答申書」として事業企画運営委員会に提出され、4月18日の理事会での採択を経て、5月23日の総会で最終的に承認された。なお各会員別の会費については現状の会費のフレームの中で総額を配分するという手法をとった。

黒字倒産?

かつて中小企業でよく見られた財務上のトラブルにPL(損益計算書)ベースでは黒字だが、BS(貸借対照表)上の流動性が悪く財務上の問題になることがある。下世話な言い方をすると支払うべきときに支払うキャッシュがないということである。会費改定後は協会の4―8月がキャッシュの「端境期」になる。どういうことかというと会費の変更は総会採択事項であるので、当然総会採択後の会員への請求書送付となるのだが法人会員の支払いサイトから勘案して支払い期限は8月末となる。この新年度の5カ月間のキャッシュの流動性確保のためにも繰越金(正味財産期末残高)は必要なのだが、一般的に内部留保率が15%を切ると支払いに支障をきたす恐れが出てくる。4月-8月の入金・出金について前年度を参考にシミュレーションしてみると、平成24年度前半はかなりのリスクが見込まれた。
そこで事業企画運営委員会のメンバーには理事会終了後に旧会費を請求させて頂き、総会にて新会費採択後新旧会費の差額を改めて請求することをお願いして了承を頂いた。鈴木会長理事には「そこまでしなくても」という言葉も頂いたが、「リスクがある以上はお願いさせて下さい」として了承して頂いた。

結果よければ

その後の結果にも触れておかなくてはいけないだろう。協会の財政状況は平成26年度決算から単年度黒字に転じ平成29年度の正味期末残高は¥4,000,000に届きそうとの予測だそうである。これは私にとって嬉しい誤算で平成24年度以降の協会の関係者の方々の経費節減や会員誘致活動等の継続的な努力の賜物と言えるだろう。「恒産」が形成されてくれば「恒心」である協会活動の幅と深さもこれから更に増加していくことが期待できる筈である。
(文中敬称略、次号へ続く)

第9回「長いトンネルを抜けると……」

初めに

 第7回の拙稿で述べたように、私が事務局長を務めさせて頂いた最後の年度となった2012(平成24)年3月迄の2011(平成23)年度は各種の課題が山積みで、一筋縄ではいかないものばかりだった。なかでも年度内で最後まで方向性が見えなかったのが「乳等省令の見直し」の件だった。この課題には私が事務局長に就任してからは技術統括委員会と技術統括会議のメンバーが主に取組を行って頂いたが、私もロジ但(ロジスティックス、後方支援担当)的な立場で参加し、その経緯も見てきたので今回は私の視点で述べてみたい。なおこのお話は継続性があるので、私が事務局長として関わった4年間とその前後を含めて記述させて頂くのでその旨ご了承頂きたい。

屋上階を重ねる

 釈迦に説法になるがまずは乳等省令のなりたちと提起されている問題点について簡単に纏めてみたい。

 乳等省令は1951(昭和26)年に制定されたもので人間なら齢67歳になる。制定当時は社会的弱者である乳幼児や病人の栄養源である乳や乳製品の安全性を担保するという視点で制定されたと聞き及んでいるが、社会経済情勢の変化、乳業に関連する包装技術等の進展が進み、またその後制定された告示370号とのいわゆる「ダブルスタンダード」が顕在化し1970年後半から「乳」と「清涼飲料水」の市場同士の「相互乗り入れ」が加速されると、その規格値や規定の違いが参入障壁として指摘されることもあった。加えて制定されて以来、現実に対応するため部分的な改定を重ねたことから「屋上階を重ねる」逆効果も生んで、何らかの根本的対応が必要なことは衆目の一致するところだった。しかし総論としては賛成だが各論となると本件に関わるステークホルダー(利害関係者)の方々のコンセンサスの醸成は一筋縄でいくものではなかったことも事実だった。

検討の始まり

 全国乳栓容器協会時代の1980年代から当協会は各種の自主基準の作成に携わっているが、その知見を評価頂いて協力者として参加した厚生労働省の厚生労働科学研究補助金による2004(平成16)年から2008(平成20)年「乳等用器具・容器包装の規格基準に関する研究」が本件の検討の公式な出発点になった。この研究は結論として雑駁な言い方をすると牛乳類(いわゆる第1群)と調整粉乳を引き続き乳等省令の管理下に置くことと発酵乳・乳酸菌飲料・乳飲料(いわゆる第2群)の告示370号への移行を提言している。

ワイズメングループ

 この提言が引きがねとなり私が事務局長に就任した直後の2008(平成20年)年6月初旬に開催された厚生労働省と日本乳業協会との会議に日本乳容器・機器協会の厚生労働科学研究に携わったメンバーと一緒に同席している。この席上では移行に関連した種々の技術的質問に答えるという形式で行われたが、私の実感は移行に向けての具体的な検討がなされるにはもう少し時間がかかるなというものだった。これを受けて同年7月18日に開催された当時の技術委員長会議(各容器素材、形状別の委員会の委員長の合同会議)の席上では今後これにどう対応するかが論点となった。厚生労働科学研究に携わったメンバーからはその成果については、メンバーから既に理事会等の機会に発表もしておりこれをもって終了としたいとの発言もあった。しかし私はこの「火中の栗」を当協会が拾ってこの動きを進捗させることが当協会にとって最善の判断だと考えていた。そのため従来メンバーの負担になっていた日程調整や議事録管理の「後方支援」を事務局が行い、また厚生労働省や関係業界団体の対外的な窓口も務めることとした。その上で技術的な議論には、研究に携わったメンバーを中心に、知見の高い少人数のワイズメングル―プ的な組織で対応し、その結果を常設の技術事項を担当する委員会に報告し議論を行い、協会として方針決定するという「外部との技術的議論・検討」と「技術事項に関する協会としての意思決定」を切り分ける対応を発想していた。これが現在の技術統括委員会と現在は休眠状態にある定例技術会議の始まりである。後に技術統括委員会を現行定款35条に規定されている専門委員会として技術的事項に関する最高意思決定機関と位置づけたのは、こういった技術統括委員会の意思決定の重要性を協会内に担保したいという思いがあった。

「シジュホスの神話」

 個人的な感想だがそれからの4年間はフランスの哲学者アルベ―ル・カミユが「不条理の哲学」を表現するのに引用したギリシャ神話で「神々を欺いたシジュホスは刑罰として大岩を山頂に押し上げる作業を命じられるが、やっと難所を越したと思うと、大岩は突然はね返り、まっさかさまに転がりおちてしまう。そしてシジュホスは永遠にこの作業を繰り返さなくてはならない。」を思い起こさせるものだった。その過程は複雑で、その技術的な背景を含めて説明すると分かりにくいものになるのだが、私の視点からの記述ということでご容赦頂ければ次のような経緯になる。

第一期:2008(平成20)年―2010(平成22)年
 この時期は厚生労働科学研究の提言によるいわゆる第2群の告示370号への移行を如何に具体化するかが議論の中心であり、厚生労働省担当官が提示した試案について日本乳業協会、全国発酵乳乳酸菌飲料協会、国立医薬品食品衛生研究所、ポリオレフィン等衛生協議会など川上、川下のステークホルダー(利害関係者)の方々を含めて7回程度の定例技術委員会を開催して議論を行い、その度に結果を技術統括委員会に報告し方向性の確認を行った。また2009(平成19)年8月1日に厚生労働省で開催された器具容器包装部会の資料作成に協力し、当該部会には日本乳容器・機器協会から3名が参考人として陳述した。当日の議事録には部会長の「それでは大筋ご了解いただけたということにさせて頂きたいと思います」という発言も記録されている。その結果を受けて内閣府食品安全委員会に提出する資料作成にも協力し定例技術会議も3回程行った。しかしながらその後担当官の異動もあり、具体的な進捗がない状態が続いた。進捗しない一番の理由は内閣府食品安全委員会事務局が委員会に上申するあたり第1群と第2群の規制値の違いの「合理的な説明」がないというコメントだったと当時聞き及んでいる。

第二期:2010年(平成22)年―2012(平成24)
 2010(平成22)年8月にこの事態を打開するために日本乳業協会及び全国発酵乳乳酸菌飲料協会と厚生労働省担当課を訪問し、既に昨年の部会から1年が経過しているので何とか物事を進捗させたいとの申入れを行い、新たな担当官の指名を頂いた。その後何回か定例技術会議開催し、議論を続けたが今回の厚生労働省担当官と食品安全委員会事務局の打合せにおいても第1群と第2群の規制値の違いの合理的な説明が進捗のネックとなっているようだった。これを踏まえ厚生労働省担当官から食品安全委員会事務局との議論を踏まえて第1群から第3群までの食品属性が一定の範囲にあることを前提に第1群から第3郡までを全て告示に移すという提案が定例技術会議で行われた。

 当該方針転換は直後に行われた技術統括委員会おいてかなりの議論となったが、最終的には合意された。この方向性で定例技術会議において具体的な議論を重ね、2012(平成24)年3月に厚生労働省で開催予定の器具容器包装部会に向けて準備を進めた。ところが2011(平成23)年10月末の夕刻に私に厚生労働省担当官から電話があった。内容は部会長に対する事前レク(事前の方向説明)で「現在準備を進めている告示370号のポジティブリスト化(いわゆるPL化)の方向性と乳等省令の見直しはPL化が規制を強めるものであるのに乳等省令の改正の方向性は逆に緩めるもので齟齬がある」という指摘があったということだった。PL化について議論がされていることは認識していたがこんな形で乳等省令の見直しに影響があろうとは当時はだれも思い浮かばなかったわけである。12月初めに開催された技術統括委員会での意見集約では、とりあえずは第一期に合意された2群を移行する見直し案で行くべきということになったが、私は席上その方向で進めることが困難となった場合は「All or nothing」ではなく「とれるものはとる」柔軟な対応も考慮に入れさせて欲しいと発言して委員会の了承を得る一方、今回の状況と経緯について定例技術会議を開催するので、関係者に対して正確に説明して頂く機会を作って頂きたいと厚生労働省専門官にお願いした。

そして

 1週間後に開催された日本乳業協議会及び発酵乳乳酸菌飲料協会も出席した定例技術会議において厚生労働省担当官は今迄の経緯を再確認した上で規格基準の見直し(案)を提示し、告示370号の改正にまったく影響の受けない改正要望事項については早急に改正を検討するので希望事項を提出して欲しい旨の依頼を行った。この依頼を受け技術統括委員会を中心に検討を進め告示370号改定と合わせた該当乳等省令の見直しを含めた要望事項を日本乳業協会、全国発酵乳乳酸菌協会ともご相談の上文書提出し、日本乳業協会、全国発酵乳乳酸菌飲料協会、日本乳容器・機器協会の3者で担当課長に面談し、本件につき正式に依頼をおこなった。その後2012(平成24年)3月に厚生労働省で開催された器具容器包装部会においては上記の規格基準の見直し案と当協会から要望した2点の見直しが承認され、同年5月には全会員の技術担当に呼びかけた説明会も開催された。2点の改定は2013(平成25年)3月の改定公布をもって完了した。

  

最後に

 現在進んでいるPL化の動きに併せて乳等省令の見直し作業も進んでいく旨聞き及んでおり、当時関わった方々の「シジュホスの作業」が報われることになりそうなことは当時「ロジ担」的な役割を果たした者としても大変嬉しい限りである。また最後の厚生労働省担当官は失礼な言い方になるかもしれないが「交渉事に関するリズム感」の良い方で、官庁と業界団体という枠を超えた「共同作業者」というイメージで作業を進めることができたのも今から思うと良い経験になった。

(次号へ続く)

第10回「温故知新・・・」

初めに

 当協会は1958(昭和33)年に任意団体の日本牛乳キャップ協会としてスタートとしているが、1961(昭和36)年12月4日の社団法人(当時)の設立登記日を創立記念日としていることは青島顧問の「思い出すまま」にも記載されている。従って単純に計算すると50周年記念日は2011(平成23)年の12月4日ということになる。しかし12月という時期等を勘案して、50周年行事を2012(平成24)年の総会開催時に併催しようというのは、私が事務局長を仰せつかった時点で既に既定路線になっていたと記憶している。これに加えて同年4月1日が一般社団法人への移行日となるので、一般社団法人としてのお披露目的なニュアンスも加えて行かなくてはならなかった。

「古き革袋に新しい酒を」

 新約聖書のマタイ伝には「新しい酒は新しい革袋に」という言葉があるそうでこれは、新しい内容を古い形式に盛り込むと多くは内容も形式も共に生きないことを意味しているらしい。しかし一方で論語には温故知新という言葉があり、過去の事実を研究することで新しい知識や見解を得ることができると言う意味であるようだ。東洋と西洋の発想の違いが端的に示されていて興味深いが、私は当協会の50周年記念行事は従来のやり方は尊重しながらも何らかの形で「新生日本乳容器・機器協会」としての意思表明も行いたかった。そこでこれらの趣旨を事業企画小委員会で議論頂き、平成23年3月提出答申書においては、既述の会費制度への全般にわたる提言や一般社団法人への具体的な移行手順等と併せて50周年行事に対する基本的な考え方が提案され、同年4月の理事会、同年5月の第50回通常総会で承認を受けていた。

「最小コストで最大効果」

 承認された答申書においては50周年行事が単に50周年を祝うだけではなく、日本乳容器・機器協会が新たな出発(たびだち)の意思を内外に表明する機会とすべきこと、時期は2012(平成24)年の総会と併催とし、内容は記念誌の発行と表彰を含む記念式典を中心とすべきこと、「最小コストで最大効果」を目指すことが明記されていた。「最小コストで最大効果」とは具体的には50周年事業の全てを特定引当資産¥2,000,000+αで賄い、かつ新たな出発(たびだち)を内外に表明する効果の最大化を図ることを意味していた。

 50周年記念行事の目玉となった50周年史だが、こういう類の仕事に関わった方はよくお分かり頂けると思うが、これをゼロから作業するとなると資料集めや、インタビューそしてプロのライターによる原稿の書き起こし、年表や資料作成、校正作業など莫大な作業となる。通常企業だと○○年史編集委員会のような組織横断的な委員会が各部門の代表者によって構成され、広報部門が事務局となって定期的な編集会議を主催し、作成にあたるというのが通例である。また作成費用も特定引当資産レベルではとても間に合わないとところだが、今迄述べてきたような状況の当協会には、当時これに対応できるヒト、モノ、カネは残念ながら無かった。そこで私が事務局長就任当時から発想していたのが、協会だよりに連載されていた青島顧問の「思い出すまま」の活用だった。「思い出すまま」は協会だよりに2005(平成17)年から連載され、ホームページを通しての問合せも多く、協会だよりの「目玉記事」となっていた。つまりこれを50年史の基軸として活かすことができないかということだった。

 一方で実際の作成にあたっては、鈴木会長理事の承認を頂いて編集作業を日本テトラパックのコミュニケーションズ時代に担当していた、社外向け広報誌や社内報等の編集作業の協力会社にお願いすることにした。そして社長に当方の状況と作成したい内容を説明した上で印刷を含む編集作業のコストを「指値」させてもらい、このコストで受けてもらいたい旨お願いすると共に、コスト内で押さえるために私がやらなければならない作業を明示してもらった。つまり「外部委託作業の内作化」である。この条件が双方にとってかなり過酷であることは私自身も認識はしていたが、了解して頂いた時は嬉しかった。

「深化と拡大そして未来へ」

 これは50年史のタイトルで実は編集作業を依嘱した会社の依頼で私が出した5つ位の候補の内の一つで、最終的に言いまわしは少し換えたように記憶している。編集意図で述べられているように本編においては「草創期」、「啓発普及期」、「拡大期」、「拡充期」の各章で全国乳栓容器協会時代の活動の「深化」と捉え、「次代へ翔ける」の最終章で日本乳機器協会との統合に触れるというストリー立てだった。

 まずお願いした編集作業担当者に7年間に及ぶ連載を通読してもらい、上記のコンセプトをベースに進めることとした。次に私がこれにそって各号の原稿を時系列に並べ直す作業をした。事務局長に仰せつかって以来、青島顧問の原稿の掲載前の確認作業には関わっていたので、これ自体それ程時間はかからなかった。また最終章は日本乳機器協会との統合作業にもっとも深く関わった椿山副会長理事(当時)に執筆をお願いした。
 その上で用意された日程表に従って、各章のつながり、「てにをは」表記の統一等をキャッチボールで確認を進めた。並行して青島顧問には牛乳に関する法令関係表の最終化をお願いし、私は青島顧問と協力しながら協会年表の最終化を行った。この時期山積みの課題に対応しながら、並行して空き時間でこれらの作業をすすめていったが、かなりのワークロードで協会事務所のある乳業会館の最終退出者になることも多かった。

  

 定期的に協会事務所で開催された、青島顧問、編集担当者、印刷担当者と私の編集会議が近づくと、それまで忙しさにかまけて、手つかずの作業を行うこととの連続で私の常套句は「あとやっていないことはなんだっけ」と「お金がないんだよね」だったと記憶している。しかし編集後記に記したように「平均年齢やや高め(失礼)の編集チーム」がそのチ―ムワークとコミュニケーションで所期の目的を達成することができたのは私にとっても思い出に残るものだった。

「艱難(かんなん)汝を玉にす」

 この諺は地中から掘り出された粗な玉が磨かれて美しい玉になるという意味で艱難(かんなん)とは困難にあって苦しみ悩むことらしい。2012(平成24)年を迎えると関係者の方々の努力もあり様々な課題の進捗も見え、一般社団法人としての初めての理事会と社員総会の日程も決まり、50周年行事自体の準備を具体的に進めようとした時に私にとって最後の困難がやってきた。個人的なことではあるが記しておきたい。

 2011年(平成23)年秋に受けた人間ドックの結果で消化器系が要精密検査となっていたが、忙しさにかまけて延ばし延ばしにしていた。2012(平成24)年2月頃やっと時間がとれて亡父の時代からお世話になっていた主治医のところで検査を受けた。主治医の所見は「すぐ専門医の検査を受けた方がよい。」ということで距離的にも自宅からそれほど遠くない某大病院の後輩である消化器外科部長を紹介してくれた。

 主治医にとってもらったCTを持参して問診してもらったが、東京大学剣道部出身で声の大きさでは院内でも有名な消化器外科部長は、CT映像で部位を示しながら、理路整然と「この病気には診療方法が3種類あるが、Aはこういうメリットとデメリット、Bはこういうメリットとデメリット、Cはこういうメリットとデメリットがあり、私はA(つまり手術)をお勧めする。執刀は私がします。リスクはこの位です。」説明してくれた。

 主治医の所見から覚悟はしていたが理事会と総会の件が心配だったので「入院日を4月18日(理事会)より後として5月10日(5月23日総会)過ぎには退院可能ですか。」と質問すると「そういうご都合があるならそれでとりあえず手術の予定を組みましょう」と言ってくれた。妻と娘にはかなり怒られたが、私の自己満足だからと許してもらった。

 この医師は現在その病院の副院長の要職にあるが、多忙ななかでも医師としてもまだ現役で、今でも定期チェック等でお世話になっている。
 それからはまず海外出張中だった鈴木会長理事へのメール連絡や帰国後の面談、青島顧問、事務局のSさんとの相談、今後経緯を記すが新会長、新事務局長との連絡・面談など気掛かりな「留守中」のことについての打合せを進め、4月18日の理事会に出席して4月19日に入院し、21日に手術した。入院前はその忙しさのお陰で逆に病気について変に思い悩むこともなく、淡々と時は過ぎて行った。

 これには後述談がある。5月の連休明け後、暫くたってから当時監査でもいつも適確な指摘を頂いていたS監事が理事会の議事録(実は翌日入院予定なので、大枠は準備し、理事会終了後に最終化していた)に署名捺印するにあたり、ある部分の表現について私に確認したいと事務局に電話がかかってきた。実は私は無用の心配を避けるという意味で一部の方々を除いて協会関係者には私の入院の件は伏せてもらっていた。電話をとった事務局Sさんは、S監事とのやりとりから本件は重要と判断して私の携帯電話に連絡してくれた。私はS監事に病室からお電話して説明したが、最後に「ところで今どこにいるのですか」ということになり「実は理事会直後から入院して今病室です」とお話しして大変恐縮された記憶がある。
 入院中は担当医師や看護師の指示をよく守る「模範囚」としてとにかく社員総会と50周年行事の準備に1日でも早く復帰できるように努めたが、復帰してからも公私共に若干の困難がまだ残っていた。

(次号へ続く)

第11回「飛ぶ鳥跡を濁さず」

虎の穴

 2012(平成24)年の5月の連休もあけ、暫くたってから予定通りに退院することができた。現在の術後の社会復帰に向けてのプログラムは、健康保険の財政状況が厳しいことも影響しているのか、なるべく短い期間で退院させるというのが大前提になっている。どんな長時間の術後であっても、基本的に翌日の朝からベッドから降りて短い距離でも歩くことが退院に向けての第一歩となる。まずは病室のあるフロアの一周から始まってその量と質が向上するに従って体に接続されている点滴やモニターの機器の数も減っていき、最近の新聞紙上でよく見受けるCVID(完全かつ検証可能で不可逆的な解除)が終了すると、退院も視野に入ってくる。私は病院の一番長い廊下を、昔大好きだった漫画のタイガーマスクに出てくる「虎の穴」になぞらえて自分で課したノルマの往復回数を毎日消化していた。それでも総会約3週間前の退院からの「社会復帰」には結構時間がかかった。退院の週は3日程自宅で過ごしたが、翌週から協会に半日ベースから始めて段々滞在時間を延ばしていく作戦をとり、新事務局長や青島顧問、そして事務局のSさんには迷惑をかけながら総会の準備を進めていった。

引き継ぐひと

 実は私は協会の会長会社の交代に3回程関わっている。最初は既述の通り2008(平成20)年の6月の当時の日本紙パック株式会社から日本テトラパック株式会社への交代で、この時は既に前年に会長会社を引き継ぐことが決定しており、私はそれまでの日本紙パック株式会社の事務局運営を交代前から勉強させて頂いて、当時の鈴木副会長理事(後に会長理事)のバックアップを頂きながら少し自分なりの事務局案を温めて交代に臨んだ。大変有難かったのは当時の日本紙パックの事務局の方々が6月から3ヵ月間程バックアップ体制を敷いて頂いたことで、実際に事務局の仕事に携わってみると、色々分からないことがでてくるのを「こうやっていました。」とコメントを頂くだけで大変有難かった。
このあたりの経験がその後の運営を進めて行く上での糧となっている。

引き継がれるひと

 次はまさしく2012(平成24)年の日本テトラパック株式会社から日本紙パック株式会社(同年10月1日に日本製紙株式会社の紙パック事業本部となる。)の引き継ぎでこれには結構思い出がある。2011(平成23)年末には当時海外出張が多く、次期会長会社の件であまり時間が割けなかった鈴木会長理事にお話をして、会長会社の交代に関する「交渉事」についてメール等による報告を条件に権限移譲させて頂いて、副会長理事の方々を訪問して色々お話しをさせて頂いた。紆余曲折はあったが最終的には日本紙パック株式会社に受けて頂き、椿山副会長理事から会長理事に就任する内諾を頂いたのが確か2012(平成24)年2月の末だったと思う。これに伴い新事務局長の選任をお願いして4月18日の理事会で髙橋新事務局長をご紹介するところまでこぎつけた。そこから2月近く時間をかけて引き継ぎを計画していたのだが、私の入院という事態になってしまったので、椿山副会長理事に事情をお話しして、最小限の引き継ぎで私の入院中から事務局業務にOJTベースで参加して頂く無理をお願いすることになってしまった。そしてこの時のいきさつもあって2015(平成27)年の総会まで、シニアアドバイザーとして事務局運営に関わることとなったわけである。

そして再び引き継がれるひと

 2014(平成26)年末だったと記憶しているが、当時の大市会長理事(日本製紙)から「会長会社を日本テトラパックさんにお願いしたいと思っているのだがどういった手順がよいか」という質問を頂いた。私は「昔の任侠映画のようで恐縮ですが、まずは日本製紙さんから日本テトラパックさんに訪問して公式に要請するという「仁義」を切ったら如何でしょう」という生意気な返事をした。これが発端で、大市会長理事が当時四谷にあった日本テトラパック株式会社を訪問し、鈴木副会長理事に次期会長会社を正式に要請したのが2015(平成27)年の初めのように記憶している。そこからは話はトントンと進み、同年4月21日の理事会には上田新会長理事と野田新事務局長がオブザーバー出席している。

「自前の事務局体制」とは

 話は前後するが、2012(平成24年)の総会が終了し一連の課題が片付き、病気後の社会復帰もなんとか軌道に乗った私はシニアアドバイザーという立場で、まだ事業企画小委員会に出させて頂いていた。その席上で提案したのは平成30年度、つまり今年を意識した中長期計画を立案したらどうかということだった。理由は2つあった。一つは予定通りであれば平成29年度に公益目的事業が終了すること、それと確固たる裏付けがあるわけではなかったが、それと同じ位のタイミングで乳等省令と告示370号の統合が行われるではないかという予感だった。このタイミングまでに「新生日本乳容器・機器協会」の基盤を固めておけばその次の飛躍の絵は次世代の方々が描いてくれるだろうと考えた。様々な議論が行われた結果、事業企画小委員会はこの提案をベースに平成30年度のゴールと2年度+1年度のリボルビング方式でPDCAを回す目標管理を提案し、理事会と総会で承認を頂いた。その後事業企画小委員会委員長はこの方式によるフォローアップを毎年総会で報告し、本年5月23日の総会においても最終結果のとりまとめを報告し、本年度は平成31年度以降の計画策定に取り組む旨発表されている。

  

 「自前の事務局体制」には過去日本乳容器・機器協会の会長会社はヒト・モノ・カネを自社から「持ち出して」協会運営を行わなければならなかったということを踏まえ、この負担を少しでも減少させると共に事務局の継続的な運営を可能にして、会長理事には理事のトップとして協会の方向性や政策決定に関することに専念して頂けることができるのでないかという狙いがあった。私の予測より早く財政基盤の改善が進んだ結果、今年の6月からこれが実現することになるとお聞きした時はとても嬉しかった。(文中敬称略 次回へ続く)

  

第12回「五十にして天命を知る」

子曰く

 昔高校の漢文の教科書にも出てきた論語における孔子の「十有五にして学に志し」で始まる有名な一節では「五十にして天命を知る」とされている。これは「50歳になったら天から自分に与えられた使命を知ることができた。」という意味であるようだ。「60歳で人の言葉に素直に耳を傾けることができるようになり、70歳で思うままに生きても人の道から外れるようなことはなくなった。」と個人的には耳の痛い続きもあるのだが、法人である日本乳容器・機器協会の総会及び50周年の行事はその歴史に思いを馳せると共に一般社団法人への移行を完了した新生日本乳容器・機器協会の今後の方向性を公に表明するという一面をもっていたように思う。

平成24年度社員総会の位置づけ

 2012(平成24 )年度5月23日に開催された平成24年度の社員総会及び50周年記念行事は鈴木会長理事のもとで私が事務局長を務めさせて頂いた4年間のクロージング的な意味ももっており、かなり盛り沢山な内容であったが、退院してまだ1カ月を経過せず100%の状態ではない私は青島顧問、髙橋新事務局長、事務局のSさんのサポートを頂きながら何とか準備を進めていった。

 まず総会そのものでは、私の入院の直前の4月18日の理事会での討議を踏まえて、まず採択事項として第1号議案で旧社団法人としての最終年度として平成23年度の事業概況報告と決算書、次に第2号議案一般社団法人への移行に伴う定款と関連する規定類の変更そして第3号議案として長年の懸案であった財務基盤の強化策と会費制度の改定の承認を頂くこととした。その後第4号議案として6月1日以降の協会運営体制の件として、理事会で承認され椿山新会長理事の紹介を行い、第5号議案で50周年行事の準備報告を行って、最後に第6号議案として平成24年度事業計画書と予算書について報告を行うこととした。

 一般社団法人としての最初の総会であるので、一般社団法の法理に則っての進行には特に気を配り、関連書類や進行方法の確認を行った。今は当然とされている一議案ずつ挙手による採択や投票記録の保存も参加者の方々には初めてあるので説明方法等には気を配った。

50周年表彰者選定

 50周年行事のなかで重要な位置を占める50周年表彰者の選定については、青島顧問や事業企画小委員会のメンバーの方々とご相談させて頂きながら、厚生労働省食品安全部長感謝状7名と会長理事感謝状3協会内合議体の事務局案を策定した。具体的にはまず選定にあたってのルールを作成し、これに基づき感謝状授与者候補を厚生労働省食品安全部長感謝状候補7名と3協会合議体とするものだった。これを入院直前の4月18日の理事会で承認頂いた。入院中は厚生労働省食品安全部との詰めは青島顧問に、各候補者とのコンタクト等は髙橋新事務局長に分担して頂き、本件の総括を青島顧問にお願いすることとなってしまい大変申し訳なかったが、退院するとほぼ作業が完了しており大変有難かった。

  

「深化と拡大そして未来へ」50周年史映像版

 既に述べたようにこの50年史は印刷物としては50周年行事の際配布させて頂いたが、私はこれに加えて、日本乳容器・機器協会の50年間を3分間程度の映像にして式典中に流すことはできないかというだいそれた発想をしていた。会員のこの領域が得意な方のアドバイスを頂いて、当時結婚式の新郎新婦の誕生から馴れ初めなどの紹介によく使う、著作権フリーのBGM付きのソフトを教えて頂いて購入し、私と事務局のSさんのPCに取り込んだ。(確か7000円前後だったと思う。)ところがここまでで私は入院し、退院後もそこまでは手が回らない状態が続いていた。私はSさんに既に完成していた50年史「深化と拡大そして未来へ」の内容に従って、協会のサーバー上に取り込んでいた写真を組み合わせて、これにBGMをつける作業をお願いしたところ、半日もかからずに映像版を仕上げてくれてとても助かった。ところがPCのモニター上では問題なく写るこの映像が、信号のやり取りの関係か、プロジェクターで投影できないという問題が判明し、一時はどうなるかと思ったが、ITのハードウェアに強い髙橋新事務局長が解決策を見つけてくれた。この映像版は当日の式典と懇親会で上映し好評を博した。

そして

 当日予定どおりに開始された総会は、関係者のご協力で予定したスケジュールどおりに進行し、第4号議案「平成24年6月1日以降の協会運営体制の件」の冒頭に鈴木会長理事は「平成20年度より会長会社として協会運営にあたって参りましたが、継続的な協会運営の実現という観点からも会長会社の任期は2期4年程度が望ましく、また一般社団法人への移行など新生日本乳容器・機器協会へのスタートの準備が完了したこの時点で、会長会社は交代し、新たなリーダーシップで新生日本乳容器・機器協会のスタートを切るべき判断しました。」と発言し、その後新会長理事、事務局長の紹介を経て椿山新会長理事が就任挨拶を行った。
第6号議案報告終了後総会は終了し恒例の厚生労働省食品安全部監視安全課長の記念講演があり、参加者はその後記念式典会場に移動した。
記念式典は鈴木会長理事の挨拶、厚生労働省食品安全部長の祝辞、感謝状授与と厳粛に進み、受賞者を代表して青島顧問の謝辞で無事終了した。

長い日の終わり

 そのあと懇親会となるのだが、実は私は一つだけ毎年と違う段取りを隠していた。中締めの予定時間になったところでライトを落としてもう一度50年史映像版を上映し、これが終了したところで演壇に立った私は「裏方であるべき事務局長の最後の掟破りをご容赦頂きたい。」として、事務局長になったいきさつや4年間の苦しかったことや楽しかったことに若干ふれた後、私を事務局で支えてくれたSさんと、テトラパック側の担当として多忙な鈴木会長理事の日程調整等で苦労されたYさんに4年間の感謝の気持ちを込めて花束を贈呈した。その後新旧会長理事、副会長理事、青島顧問、Sさん、Yさんに壇上に上がってもらい、中締めをしようとしたのだが、ここまでほぼ6時間立ちっぱなしの病み上がりの私にはもう中締めをする体力が残っていなかったので、急遽席上で青島顧問に中締めをお願いした。青島顧問の「両手に花」で始まる軽妙なイントロの後、参加者全員で中締めが行われ、その後お開きとなったのだが、出席していた理事、事業企画小委員会や技術統括委員会のメンバーが演壇近くに近づいてきて、次々と握手を求められたことがとても嬉しかった。

 私の「日本乳容器・機器協会で一番長い日」はこうして終了した。(次回へ続く)

第13回「仏作って……」

最初に

 前号でのべたように2012(平成24)年5月に開催された総会及び理事会により私はシニアアドバイザーという立場になった。私としては事務局長時代に立ち上げた制度や仕組みを軌道に乗せたら御役御免と思っていたが、結局2015年まで3年間やらせて頂くことになってしまった。というわけで今号 からの記述はそういった視点で書かれているということをまずご了承頂きたい。

ハードウェアとソフトウェア

 最近スポーツ関係の一般社団法人の不祥事が、マスコミで大きく取り上げられることが多いようだ。論調として「一般社団法人は設立も自由で何の規制もないので、制度として問題がありこういうことが起こりやすいのだ。」というものがあるようだ。個人的には「木を見て森を見ない」議論のような気がする。当稿の第3回に述べたが私は移行に関する種々の措置を含めてこの制度は(第3者的には)なかなかよくできた仕組みだと思っている。無論「小さくて、貧乏で、まじめな」当協会の当時の移行手続担当者としていくばくかの苦労があったことは今迄述べてきたとおりである。しかしむしろ問題はこの制度がきちんと活用されているかということであるのではないだろうか。「仏作って魂入れず」という諺があるが。某スポーツ系の一般社団法人で今回話題になった方の終身会長(理事)就任が決議されていたという報道があった。この法人の定款がホームページ上に公開されていないので確認できないが、一般社団法人と呼称している以上は、かなり長い歴史をお持ちなので、当協会のように特例民法法人からの移行だと思われるが、もしそうであれば移行時に内閣府公益等認定委員会に定款の確認を受けている筈で、会長(代表理事)が総会で選任された理事によって、理事会で互選されるという一般社団法人の基本的なルールが守られていれば、終身会長(理事)などという考えられない決議が行われる筈がない。また透明性を確保のために総会や理事会の議事録の公開をホームページ等通して行っていれば、会員は理事会の決議内容についても知ることができる筈であり、こんなガバナンスに欠けた決議を行った理事会に対して何らかのアクションは基本的にとれる仕組みになっている筈である。言い換えれば法律や制度はハードウェアであって、その趣旨を理解して活用する人間の知恵であるソフトウェアがなければ「魂を入れない仏」になってしまうのではないだろうか。これは法律や制度の問題以前のことのような気がする。

伏線

 話は1992(平成4)年に遡る。同年6月当時の総務庁行政監察局は「公益法人等指導監督に関する行政監察結果報告書」を発表し当時の民法法人の各監督官庁に報告している。ここで指摘されているのは、まさしく私が事務局長時代に関わった一般社団法人への移行の際に内閣府から提起された問題点の伏線となったもので、「しかしながら公益法人の実態をみると、その事業内容が収益事業に傾斜し、しかも収益事業により得た利益を公益事業にほとんど使用していないもの、公益事業をほとんど実施していないもの等事業運営が不適切なものが見られるほか、財務基盤が十分に確立されていないもの、理事の大部分を親族又は特定の利害関係者が占め不適切な事業運営を行っている等が見られる。」として各監督官庁に対応を求めていた。1993(平成5)年2月、これを受けて厚生省(当時)からは社団法人全国乳栓容器協会(当時)含む監督下の社団法人(当時)に対して「標記報告書の主旨を踏まえ、貴協会の適正な運営と貴協会の目的とする事業の積極的な推進に努められたい。」という文書が発出されている。

 これを受けて当時の青島事務局長が厚生省(当時)と定款変更を含む打合せを進めるなかで理事の半数を会員以外とし、かつ理事会を補佐する定款上の専門委員会として、会員で構成される事業企画運営委員会を設置して対処するという方向性となったとお聞きしている。

一般社団法人移行後の対応

 しかしながら時が経過するなかで、この対応は理事と事業企画運営委員を兼務されている方々には殆ど同じ議題で2度会議に出席頂くという手間をかけるという弊害もあったので、一般社団法人移行を完了した時点で理事会と事業企画運営委員会を「統合」するべきではないかとの意見を私は持っていた。ただ一筋縄でいかないのは理事構成の検討だった。「三顧の礼」で当時外部からお迎えした理事の方々もおりなかなか困難な点もあった。ただある意味で幸運だったのは、会長会社の交替と理事の改選が同年度に行われなかったことであろう。実はこれも青島顧問に確認したところ上記の対応による理事の任期満了以外の選任が原因で、会長会社の4年交替ルール(明文化はされていないが)と理事の任期(2年)が一致していなかったということのようだ。(私はこれを「たすきがけ」と呼んでいた)但しこれは2012(平成24)年に日本製紙が会長会社を日本テトラパックから引き継いだ時に会長会社の任期を3年とすることで解消している。分かりやすく例示するとこの一般社団法人移行時の会長会社の交替は理事の改選期ではなかったので、理事会の互選で鈴木会長理事から椿山会長理事にバトンタッチされたが、2015(平成7)年に行われた大市会長理事から現上田会長理事への会長会社の交替は、理事の改選年度であったこともあり、総会で上田新理事を含む全理事の選任が行われ、これを受けた同日の理事会で上田理事が新会長理事に選任されたということになる。もしこれが一般社団法人移行と同時期だったとするとその準備の大変さと当時の状況から考えて理事構成の変更は次の理事改選期にずれこんでいたかも知れない。

理事会と事業企画運営委員会統合へ

 本件についてはまず平成24年度の事業企画小委員会で平成25(2013)年度短期的に対応が必要な事項として取り上げられ、平成25(2013)年4月17日理事会で今後の方向性として清水事業企画小委員長から「小委員会内でも意見が分かれるところであったので、選択肢1、2及び3を併記した。事業企画運営委員会発足当時の経緯や今まで果たしてきた役割も踏まえ、最終的には統合を視野に入れて過度的役割の分担を図ることも検討の上、事務局に具体的な作業をお願いしたい。」との報告が行われた。また同5月22日に行われた第2回の定時社員総会において理事14名監事2名の選任が行われ、理事の構成は会員企業11名、関連団体3名となった。最終的な統合は平成25年11月14日の理事会で私が当時に至るまでの経緯を述べた後、組織の簡素化、会員の負担軽減、意思決定の迅速化の観点から統合の必要性を説明し理事会の承認を得た。これにより事業企画運営委員会はその役割を終えた。

  

余談

 橋場事務局長が公益目的事業の完了を確認した内閣府の長としての安倍首相名の文書をPDFで転送してくれた。当協会の公益目的事業は平成24(2012)年度に開始され、平成29(2017)年度の6年間で完了しているが、平成24年3月に頂いた一般社団法人への移行認定に関する文書が、当時の内閣府の長である民主党政権最後の野田首相名だったことをふと思い出した。色々な意味で長いような短いような6年間だったような気がする。(次回へ続く)

第14回「PDCA」

PDCAとは

 PDCAとは第2次世界大戦後、アメリカの物理学者で統計学者の「統計的品質管理の父」と呼ばれるウォルター・シュ―ハートとデミング賞等で特に日本で有名だった統計学者のエドワーズ・デミングが提唱したものである。ISOを初めとする各種各分野の管理システムに応用されており今でも書店にいけばそのコ―ナ―があるほどなので皆様も何らかの形で関わってきたのではないかと思う.PLAN(計画)をたてDO(実行)しCHECK(実績と計画の差異を評価)し、そしてACTION(改善)するというループを次のPDCAにつなげ、各段階のレベルをSPIRAL(螺旋)上に向上させるという非常にシンプルで科学的な手法である。

当協会にとってのPDCA導入の端緒とは

 50周年行事や一般社団法人への移行が完了し、目の前の懸案への取組もある程度進んだかにみえた平成24年度だったが、当協会が従来から抱えてきた、財務上の脆弱性や乳等省令と告示370号の統合などの諸問題の根本的な解決には未だ至っていなかった。そして解決に向けた取組をより前にすすめるためには、私は事務局長時代から従来の事業概況報告書、事業計画書そしてこれに付随する財務諸表による「管理」だけでは不十分で、「見える化」した数値や進捗管理が行える手法を導入するべきではないか、と感じていた。しかし当時は目の前の懸案の解決に追われていることを免罪符にして手をつけることができなかった。

平成30年度の当協会はどうあるべきなのか。

 そこで私は平成24年度の事業企画小委員会において、この時点から6年後の平成30年度の当協会のあるべき姿、言い換えればゴールについて討議することを提案した。なぜ平成30年だったかというとまず平成29年度に平成24年度から6年間にわたって実施する公益目的事業が完了すること、また平成24年3月2日の厚生労働省器具容器包装部会でその方針が示唆された告示370号と乳等省令の統合の具現化がこのあたりに行われるのではないかという個人的予測だった。(そしてこの予測は結果的にほぼ当たっていた)この2つの要因の変化はその後の協会の方向性に大きな影響を与えることは明白だったが、当時はその影響の震度の大きさや対応も漠としたものとなってしまうので、まずはこの6年間で財務状況などに代表される協会の「足腰」の強化に努め、それ移行の方向性は新しい世代に委ねたらという発想だった。

  

ゴールとそのブレークダウン

 事業企画小委員会の議論を経てゴール自体はこんなシンプルな形で落ち着いた。次はこれをもう少し具体的にブレークダウンする段階に入ったが、こちらは最初からかなりの議論になった。特に⑥番目の「収益事業の実施に関する判断基準の確立」はその実現性に複数の委員が疑義を唱えた。「できるかできないかを判断する基準を作る。」ということでなんとか了解して頂いたが、最終的には次年度に「財務基盤の強化」に変更された。

ロードマップと2プラス1リボルビング方式

 次に平成2013(平成25)年度から2015(平成27)年度にむけて項目毎にゴール達成のための3年間のロードマップについて議論した。当然直近1年目はある程度確定的なマッピングが可能だがどうしても2年目、3年目となると「想定外」のこともあり確度が下がってくる。そこでPDCAを手法として活用して終了した年度の評価(チェック)を次年度以降2プラス1に反映させて改善(アクション)するというスパイラル(螺旋状)アップで計画の確度を上げることを提案して了解を得た。

始めてみると

 事業企画小委員会でも色々な議論があったが、事業企画小委員会メンバーの方々の努力もあり、2013(平成25)年4月17日の理事会に「一般社団法人移行後の日本乳容器・機器協会のあるべき姿」をテーマとする事業企画小委員会答申の一部として報告された。また5月22日の総会においても報告が行われ、平成25年度から適用が開始された。当初はトライアンドエラーもあったが、時間が経過するにつれこの手法の使い勝手の良さをご理解いただけたようで、2015(平成27)年に私がシニアアドバイザーを退任した後も、毎年の通常総会での事業企画小委員会委員長報告に引用されていることは最初の「言いだしっぺ」としてはこんな嬉しいことはなかった。

最後に

 個人的な意見になるが手法はあくまで手法で、目的ではない。このあたりを勘違いすると「進捗管理のための計画づくり」や「数値管理のための数字づくり」という、ISOの導入時に日本の企業でも見られた主客転倒がおきる。現在当協会はまさにこの6年間で達成した成果を基に、再度何年か後のあるべき姿を検討した上でそこに至る道を改めて考えてみる時期にきているような気がする。(次号へ続く)

第15(最終)回「終わりの終わり」

初めに

 私のこの連載も最終回を迎えることになった。2016(平成28)年9月号から2019(平成31)年3月号まで約2年半にわたって拙文にお付き合い頂き感謝の念に堪えない。私と協会との関わりは既述の通り日本テトラパックに在籍していた2002(平成14)年に始まるので、なんだかんだ17年間ものお付き合いとなり、多分大先輩青島顧問の次に長くなってしまった。特に2008(平成20)年から2015(平成27年)の7年間は様々な課題に取り組む機会を頂いてとても勉強になった。それらの経験から私が感じたことを少し総括的に述べてみたい。何かのご参考になれば幸いである。

現状把握には時間をかけ、その分析には「手法」を使ってみる。

 私が事務局長になってから半年以上は殆ど従来のやり方を踏襲させて頂いた。外からみているとあれこれ「変えたい」「やりたい」ことが見えるものだが、暫くは現状把握の観点も含めてそれまでやりかたを勉強させていただいた。そこから「あるべき姿」をどんな形か考えることができると思ったからだ。

 また現状把握及び分析には「手法」が使える。例えば内部分析として当協会の「強み」と「弱み」は何か。また今後3年から5年間に協会の周辺で起こりえる「機会」と「脅威」にはどんなものがあるのか整理すると短期及び中期でやるべきことが浮き上がってくる。当時の「小さくて」「貧乏で」「まじめな」協会の強みと弱みをについて、主要な会員を訪問してご意見を伺い、そのあるべき姿についてコメントを頂いたことがその後の短中期計画の立案にとても役に立ったことは事実であったし、「強み(弱み)」は時として「弱み(強み)」になり「機会(脅威)」は考え方によっては「脅威(機会)にもなりえるということも学ばせて頂いた。

時間軸と「連続性」を意識すること

 当協会には年度という基本的な時間の「単位」があるが、それ以外に2年度を単位とした理事や各委員会の委員長の任期という「単位」もある。協会の短中期計画やそのフォロ―を有機的に行うためには「何らかの連続性のある単位の組み合わせ」が必要だった。これがリボルビング方式で2+1年度をひとつのユニットとして考える発想の出発点となった。

「理論」と「実践」

 例えば強み弱み分析で使わせて頂いたSWOT(Strength, Weakness, Opportunity, Threat)にしても、短中期計画に流用させて頂いたPDCAサークル(Plan, Do, Check, Action)にしてもそれ程複雑な理論ではない。個人的な意見だが「理論」と「実践」は旅行ガイドブックと旅行そのものの関係によく似ていて、オーソドックスな旅行前にガイドブックを参考にして旅行計画を立てるという使い方だけではく、旅行後にガイドブックで行った場所を確認するという使い方も役に立つものである。忘れてはいけないことはこれらを「道具」と割り切ることで、さもないと道具に振り回されることになりかねない。これはコンサルタントのはしくれであった私が常に肝に銘じていたことでもある。

組織横断的な議論の場の設定と「7対3」のスタンス

 私が事務局長になってまず感じたのは「たたき台を議論できる場」が不足しているのではないかということだった。確かに理事会は企業の取締役会、総会は企業の株主総会にあたる重要な意思決定機関であるのだが、その場所での決定がスムースかつタイムリーに行われるためにはそのためのたたき台を議論して報告する、必要な権限をもったワーキングレベルのファンクションが必要ではないかということだった。技術統括委員会の定款上の専門委員会化による技術的事項意思決定機関としての明確化や、乳等省令に関する議論についての技術統括委員会と定例技術会議の役割分担、そして事業企画小委員会の「ワイズメングループ」としての位置付けの発想の根本はこんなところにあった。ところでこういった議論の過程では、ごく稀だが会員同士の利害関係の衝突が見られることがある。私は「委員としての立場70%、出身企業としての立場30%」で議論して頂けないかという無理なお願いを委員の方々にし、またこれを自分にも課していた。

お世話になった方々

 私が最初に協会に関わりをもたせて頂いた時は椿山事務局長(後に会長理事)、青島顧問にご指導頂いた。事務局長に就任させて頂いてからは鈴木会長理事には、世の中では「任せるが責任もとらない。」というマネジメントが多いなかで、「任せて責任は取る」というサポートを頂いて大変感謝している。2012(平成24)年5月に当協会総会と併せて50周年行事を行ったが、既述の通りこの年度は一般社団法人に正式に移行した象徴的な年度でもあった。当協会の伝統と今後進めていくべき革新が「交錯」した年度に私は事務局長として任期を終えることができた。その後はシニアアドバイザーとして事務局長時代に関わった仕組みや制度を軌道に乗せるお手伝いを2015年(平成27)年までやらせて頂いた。協会が今後とも、培われた伝統の上に新たなイニシアチブで革新的な取組を進めて行かれることを期待している。

「終わりの終わり」

 私はこの連載の第1回を「はじまりのはじまり」というタイトルで始めさせて頂き2002(平成14)年の当協会と私の関わりから始めさせて頂いたが、最終回は私が最後に関わらせて頂いた2015(平成27)年5月の総会とのその後の7月の協会だよりから2枚の写真と故ダグラス・マッカーサー将軍が1951年アメリカ合衆国議会合同会議で行った退任演説からの「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」(Old soldiers never die; They just fade away.)の引用で「終わりの終わり」とさせて頂きたい。(完)


「第4回定時社員総会で上田会長理事から
理事退任の記念品を受け取る鈴木前理事」
 
「協会だより2015年7月1日号に掲載した新旧事務局長の
写真左から江刺家前事務局長、私、野田事務局長」
福田 利夫(ふくだ としお)
1949年(S24年)生まれ 中央大学法学部法律学科卒業、1976(S51年)年テトラパック株式会社(当時)入社、営業、マーケティング、品質保証、環境、コミュニケーションズでマネージャーを務める。2005年(H17年)独立し福田利夫事務所を創設し現在に至る。中小企業診断士、通訳案内士(英語) 2005年(H17年)法人整備小委員会委員長、2008年(H20年)事務局長、2012年(H24年)シニアアドバイザー 2015年(H27)-顧問