一般社団法人日本乳容器・機器協会 お問い合わせ ホーム
事業 活動 リンク集 予定表 アクセス コラム 会員専用
コラム
 
 

日本乳容器・機器協会と私
 第1回「はじまりのはじまり」

顧問 福田 利夫

2016年(平成28年)もあっと言う間に8月を迎えた。最近の定期検診でも数値的に問題を指摘されたものもあるが、なんとかおしなべて年齢的にそれなりの状態を保っているようで、まだもう少し命長らえることができそうである。「前期高齢者」と言われる年になってみると、過去を振り返ることが多くなり、あの時はこうすればよかったと思うことも多々あるものだ。青島顧問の「思い出すまま」にはとても及ばないが、創設以来50余年を迎えた日本乳容器・機器の歴史のなかで関わった約10年につき、私の視点から記すことが読者の方々の興味を引くことができれば幸いである。なお直近の未だ「生臭い」ことは書けないし、協会関係者以外は実名を伏せる青島顧問のルールは踏襲させて頂くこととした。


2002年(平成14年)に話はさかのぼるが、当時私は日本テトラパックでコミュニケーションズを担当していた。本来不可算名詞のコミュニケーションにSが付いているのは社外向けと社内向けの双方のコミュニケーションをやりなさいということで、社外では広報誌の編集やホームページの管理、社内向けでは本社から送られてくる方針の和訳や社長の全社員向けのメッセージ原稿の作成や、イントラネットを使った社内伝達、そして社内報の編集と社内、社外を問わず多様な情報の交通整理的な仕事を3人のスタッフと行っていた。この種の仕事は具体的に関わっている部署やマネジメントの方々との各種の調整が必要で、その意味で営業、マーケティング、製品計画、品質保証、環境等、色々な領域を経験させてもらったことがこの仕事の糧になっていた。また特に勉強になったのは当時の日本テトラパック山路敬三元会長の「鞄持ち」で、大手新聞の環境ジャーナリストや、日本のトップ企業の環境担当の責任者の方々と企業の枠を超えた交流は大変良い経験になった。

さて8月にそれまで日本乳容器・機器協会のコンタクトパーソンをやっていた日本テトラパックのマネージャーが退職することとなり、他の協会等の窓口的な業務も行っていた私が引き継ぐこととなった。なにも分からないままに前任者に連れていかれたのが全国乳栓容器協会(当時)の法人整備小委員会という会議だった。この会議は当時の青島事務局長が進めていた、公益(民法)法人の新指導基準による定款の見直しや外部理事の選任などの作業を補佐するために設立された委員会で、青島事務局長の他に3副会長会社(当時日本テトラパック柚木社長は副会長だった)の委員から構成されていた。この8月の会議から参加したのが、元椿山会長理事(日本製紙)と私で委員長は前任者を引き継ぎ椿山氏が互選された。

なにも分からないままに参加した法人整備小委員会だが、2003年(平成15年)、2004年(平成16年)と回数を重ねるにつれ新参物の私にもこの協会が解決しなくていけない課題が見えてきた。簡単に言えばまさしく「民法法人としての整備」であって、具体的には創設以来の会長会社である尚山堂への過大な依存を減らし、協会としての活動を進めるための内外部を整備するための実施可能な手順を示すということになる。実はこれは「言うは易し、行うは難し」の典型のような課題である。今でも私は当協会の特徴を「小さくて」「まじめで」「貧乏」だと落語の3題噺のように説明するが、会員数が少なく容器包装の安全衛生については真摯に取り組みを進めているが、財務基盤が脆弱というのが当時の私の個人的な「強み弱み」分析の結果であり、またその後より深く協会と関わるようになってからの課題ともなった。

具体的には、尚山堂の本社に同居させて頂き事務局業務の殆どをお願いしているという状況から脱却し、自前の事務所を持つことや、創立以来尚山堂にお願いしてきた会長会社の就任ルールの見直しを行って新会長会社への移行を実現すること、そしてこれらにより必要となる原資を担保するための会費の見直しということになるのだがどれも一筋縄でいく問題ではなかった。ただ誤解を恐れずに言うと、この委員会での討議は私にとってとても参考になった。殆ど外資系一筋できた私には、それまでの協会運営の表も裏も知り尽くした青島事務局長や日本企業のコンセンサスの醸成のやりかたについては十分な経験をお持ちの椿山元会長理事他委員の方々は、時に原則論を声高に主張する私の発言にも耳を傾けてくれた。会議の後の飲み会もとても楽しいものだった。

さらに関連して解決しなくてはいけない、2つの「外的要因」による追加的な課題があった。まず乳栓容器協会と日本乳機器協会との「統合」に関する課題で、これは50年史に椿山元会長理事が精緻に経緯を記述されているので重複を避けるために本稿では言及をさけるが、数々の紆余曲折を経た2005年(平成17年)1月の統合まで、この件についての私の唯一の貢献は現在の日本乳容器・機器協会の英文名であるJapan Association of Milk Packaging & Machineryの提案ぐらいである。次が日本乳容器・機器協会スタート直後の定款の下部文書である規程類の整備でこの仕事が江刺家元事務局長(日本製紙)との出会いになっている。50年史では椿山元会長理事から過分な言葉を頂いているが、業務管理と数字に強くエクセルの使い手の江刺家事務局長が、時間をかけてつくられた20を超える規程の原案をほぼそのまま最終案化しただけで、強いて言えばISO14001がらみで文書管理を勉強したことがお役にたったのかも知れない。

さて最後に個人的なことに触れておかなくてはならない。私は2004年(平成16年)12月末をもって日本テトラパックを退職している。これは自分のやりたいことに人生で1回位はチャレンジしてみたいという我儘で、55歳という年齢や所属企業との「貸し借り」、言い換えればやっとお世話になった分はお返しできたかなという思い込み、またある意味で親の責任の完了である娘の卒業で「身軽」になったというような条件が整ったところへ2003年(平成15年)12月の日本テトラパック山路元会長の急死が背中を押したということかも知れない。

山路 敬三(やまじ けいぞう)
1927年生まれ東京大学理学部物理学科卒業。工学博士(ズームレンズの光学設計に関する研究)。 1951年にキヤノンカメラ株式会社(現キヤノン)に入社。中央研究所副所長、事務機事業本部長などを務めた後、1989年に代表取締役社長に就任。1993年1月米国の経営誌ビジネスウィークの注目される経営者を選ぶ企画でベストマネージャーの一人に選ばれた。1995年に日本テトラパック株式会社取締役会長に就任。2003年死去

というわけで日本テトラパック退職後も規程がらみのお手伝いはさせて頂いたが、2005年(平成17年)5月の通常総会後の懇親会で当時の臼井会長理事から過分の表彰状を頂いて、私と協会と関わりは終止符を打った。この時点ではそれから約2年後の2008年(平成20年)に再度協会との関わりが再開することになろうとは考えもしていなかった。

第2回「そして再び」

2005年(平成17年)5月の総会を最後に協会との関わりがなくなった私はたっぷりある時間を活用させてもらって、それまでできなかった勉強を始めてみたりプロジェクトベースの仕事に首を突っ込んだり好き勝手をさせてもらっていた。なかでも縁あってかなり関わったのは外務省の関連団体の仕事で、企画と予算を立てて外務省のオープンコンペに応募し、学識経験者に海外調査等をお願いして、その報告書を完成させ決算書類を提出するという一連の仕事なのだが、国際政治学の若い院卒の修士やポスドク(ポストドクター、博士号をとって現在求職中)の人たちに混じって、このプロジェクトを円滑に進行させる、「ええかっこしー」な言い方ではあるがプログラムディレクターと言われる類の仕事である。この仕事は霞が関の省庁の方々とのお付き合いのやり方という点ではとても参考になった。

この仕事が一段落しそうになった2007年(平成19年)6月のある日の夕方だった思うが、携帯に登録されていない番号から電話があった。出てみると旧知のテトラパックの人事のマネージャーからだった。「今なにしているんですか?」から始まった会話でテトラパックのコンピューターの基幹システムの入替に伴い、かなりの数の管理系のマネージャーが専任かつ期限付きで参加する新たなビジネスプロセス導入プロジェクトが始まる。そのマネージャーの不在の間、期限付きで営業業務のマネージャー職をお願いできないかというオファーだった。在職中に経験のない仕事でありかなり迷ったが、「プロジェクトに参加するマネージャーがOBのなかから私を推薦している」という有難い言葉もありやらせて頂くことにした。この仕事は2007年(平成19年)の9月から開始し、2度ほど期間延長されたが2008年(平成18年)3月に無事終了した。同じ企業で違うタイミングとメンバーで2度送別会をやって頂くという希少な体験もさせて頂いた。

実はこれが日本乳容器・機器協会との再会の伏線になっている。2007年(平成19年)11月だったと思うが、退職した社員で構成されている社友会の総会が当時の日本テトラパックの本社であり、「OBで社友会の会員だが、現在は日本テトラパックで働いている」という訳の分からない立場の私も人事部に頼まれて出席させて頂いた。総会の後の懇親会で鈴木元会長理事の隣に座った私に鈴木氏は「福田さん、僕のパシリやってくれませんかね」と独り言のように呟いた。最初は全くその趣旨が理解できなかったが後でお聞きすると、日本乳容器・機器協会の会長会社の日本紙パック(当時)が2008(平成20年)の5月で2期4年を終了し、次の会長会社を引き受ける方向で検討しているが事務局長の人選に苦慮している。ついては過去協会に関わった経験がある私に引き受けてもらえないかというお話しだった。その後はあっと言う間にお話しが進んで、福田利夫事務所としてお受けすることにした。事務局長就任前にも関西ブロック会議や、理事会にオブザーバーと出席させて頂いたり、週2回程は協会に足を運んでファイルを読ませて頂いたり、サーバーの保存されている書類を確認し、江刺家事務局次長と引き継ぎをさせて頂いたりして準備を進めた。総会と関連行事までは現事務局が準備等を行うが、新会長理事の挨拶の草稿などはこちらで準備の上すり合わせを行った。

これらの結果を踏まえて私は新会長会社への移行後の事務局運営に関して鈴木新会長理事に以下の具体的な対策を提案した。

1. 日々の業務上の処理や会議の準備を担当する事務局員が必要、但しフルタイムベースである必要はない。(これが現在でも当協会事務局運営のスーパー助っ人となっているSさんが当協会事務局に参加した発端である)
2. 事務局内での作業効率化を進めるための、コピー機、電話機の入替、パソコンの入替、台数の増加
3. ホームページやメルアドの管理を外注できる体制の確立

財政的に厳しい状況であるので当時の協会予算内で処理できないものもあったが、私自身の費用も含めて日本テトラパックに会長会社として、継続的に負担軽減の努力をすることを前提として無理をお願いし了承して頂いた。

5月の総会が終了し、日本紙パックのバックアップ期間(3ヵ月)が完了した2008年(平成20年)9月の協会だよりのなかで、8月に実施された北京オリンピックに絡めて私はこんなことを書いている。「本格的な秋の訪れとともに、今年の夏も最終章を迎えたようで朝晩の虫の音が秋の訪れを告げているようです。前事務局の方々に助けて頂いた3ヵ月もあっという間に終わり事務局として一本立ちしなくてはならない時期がやってきました。女子ソフトボールはとてもいきませんが、男子野球やサッカーのようなことにならないように、心して参りたいと思います」

最後に一般社団法人移行について触れておこう。2008年(平成20年)の2月だったと思うが、当時の椿山事務局長の依頼で厚生労働省食品安全部による平成19年度定期検査に立ち会った。これは当時の民法法人制度の一環として3年に1回行われているもので、厚生労働省の「所管民法法人」の活動状況が適正に行われているか「検査」する制度で担当の食品安全部2名の方が事務所に見え、椿山事務局長と江刺家次長が対応し私はオブザーバーとして出席させて頂いた。本旨の検査がほぼ問題なく終了しかけた時、「日本乳容器・機器協会さんは本年12月1日から施行される新しい公益法人制度の対処はどうされる予定ですか」という質問があった。実はこれが2012年(平成24年)4月1日の一般社団法人移行に向けた各種の作業の導線となったのである。

第3回「試練転じて・・・」

 2008年(平成20年)2月の厚生労働省の定期検査で当時の食品安全部の担当官からお話のあった公益法人制度改革だがその経緯は実は2001年(平成13年)位まで話は遡るようだ。「民間非営利部門の健全な発展を促進し、民による公益の増進に寄与するとともに、主務官庁の裁量権に基づく許可の不明瞭性と従来の公益法人制度の問題点を解決すること」に対する議論(当時の新公益法人制度のパンフレットから)はこのころから財務省を中心に関連省庁を中心に行われていたようだ。国債の大量発行に依る財政の悪化が問題視されている一方で、従来の枠にとらわれない社会的活動の形式としてNPOやNGOの活動が活発化している状況を踏まえ、「官」のみによる公益増進の活動がいずれは壁に突き当たることを予測し民間非営利部門の今後の役割を重視すること、これに加えて一部で問題視されていた主務官庁の裁量権による許認可の不明瞭さの解決を図り、既に「時代遅れ」になっていた民法上の公益法人制度に代わる新しい公益法人制度を立ち上げたいという趣旨は有識者会議の議論を経て2004年(平成16年)12月「公益法人制度改革の基本的枠組み」が閣議決定された。これを受け2006年(平成18年)の通常国会には関連3法案が提出され5月に可決成立し、6月2日には公布されており、2007年(平成19年)には内閣府に公益認定等委員会が設置された。そして2008年(平成20年)には関連する税制改革法案も成立し新制度は12月1日から施行されることになった。

 この新制度によると2008年(平成20年)12月1日から2013年(平成25年)11月30日までは5年間の移行期間として特段の手続きなく従来の主務官庁が監督する「特例」民法法人として存続できるが、この期間内に公益法人か一般法人かを選択して移行申請を行いその認定あるいは認可基準に基づいて内閣府公益認定等委員会の審査を受け、内閣府に依る認定あるいは認可を受けなくてはならない。もし移行期間中に申請を行なわず、また認定(公益)あるいは認可(一般)を得られなかった場合は解散とみなされ法人格が消滅するということとなった。なお詳細は省略するが認定(認可)基準のなかに公益目的事業という規定があり「別表に掲げる23種類の事業のいずれか」であり「不特定かつ多数のものの利益の増進に寄与するものであること」の両方を満たすことが求められており、一般法人であっても移行前年度の繰越金の総額を申請時に公益目的事業計画と共に内閣府公益認定等委員会に報告し、認可後は毎年度公益目的事業の実施状況について報告が求められることなっていた。現在の当協会のオープンセミナーはこの公益目的事業として実施しているものである。

 かなりの時間をかけてこの制度と移行に関する必要事項等につき理解した上で感じたことは第三者的に「総論」としてみるとなかなかよくできた仕組みだと思ったが、協会の移行手続当事者として見ると「これは大変なことになったな」というのが正直な感じだった。「小さくて、貧乏で、まじめな」当協会は専従の事務局員が何人かいて、経理の担当者もいるような規模の協会ではなく、だからといって特別扱いなぞして頂けないこの移行手続を、「各論」としてはこの時期の事務局長という立場として「試練」と受け止めるしかないだろうと思った。ただ同時に感じたのは、この試練を活かして以前から私自身が感じていた当協会のある種の「停滞感」を打破し今後の協会のあるべき姿を議論する機会として活かせないかという思いだった。
  まず2008年度(平成20年度)は法人整備小委員会(後に事業企画小委員会に改組)に一般あるいは公益の選択について議論して頂くこととし、事務局としては議論のために必要な情報提供として一般・公益の選択のメリット・デメリットの比較表、お付き合いのある他の民法法人の検討の方向性に関するヒアリングの報告、そして民法法人制度の移行に関する情報の提供に努めた。そのなかでの結論として、公益法人への移行は当協会にはハードルが高く移行そのものは「ちからわざ」で可能としても、移行後の公益認定等委員会の定期的な監査などへの対応や、一般から公益への移行はOKだが公益から一般への移行はNGという一般社団法上の問題もあり、まずは一般への移行という方向性が見えてきた。並行して協会組織の見直しを行い、技術統括委員会の定款上の専門委員会化(技術的事項の意思決定機関としての役割の明確化)、事業企画運営委員会正副委員長会議の新設(協会運営に関する俊敏な意思決定)などを取り纏めてもらい、答申として全委員名で事業企画運営委員会に報告するという形式にした。これにより理事会、あるいは必要に応じて総会において採択して頂き、当期の議論の結果は次期に反映されるという流れがその後も確立されることとなった。

 この答申に関わって頂いた委員の皆様は江刺家委員長(日本紙パック)、清水委員(岩井機械)、渡辺委員(日本テトラパック)、向井委員(四国化工機)、船橋委員(東洋製罐)、横尾委員(尚山堂)、多田委員(東罐興業)であり、事務局からは私が参加し、その作成したたたき台をベースに議論して頂いた。その結果2009年(平成21年)3月1日付けで以下の骨子の答申がなされている。

改正公益法人制度においては一般法人選択が望ましい
附帯事項
1 短期的には上記の選択を念頭におき準備を進めるべきである。但し今後も公益法人制度に関する検討を継続し、中長期的には一般法人から公益法人への移行の選択肢も視野に入れておくべきである。
2 改正公益法人制度に対する対応はその選択だけで終了するものではなく、今後の当会の将来像を含めた議論の第一歩と位置づけるべきである。

 この答申を事業企画運営委員会、理事会、最終的には総会で採択して頂いた。またその具体的な移行手続きについては、会費制度を含めた当協会の将来像も含めた事務局案を2009年度(平成21年度)法人整備小委員会(後の事業企画小委員会)で議論の上同年度末に目途に答申を再度上げて頂くことも了承された。

 とりあえず方向性だけは見えたわけだが、ここから2012年(平成24年)4月1日の正式移行まではまだ紆余曲折が続くこととなるわけである。

第4回「楽あれば・・・苦あれば・・・」

新生日本乳容器・機器協会に向けて

2009年(平成21年)3月の法人整備委員会(後の事業企画小委員会)の答申と同年4月の理事会、そして同年5月の総会の承認によって一般社団法人への移行の方向性は決定したがその具体的なプロセスと日程については、2009年6月以降の同委員会での議論に委ねられ、そのたたき台の作成は前年度の答申と同様事務局が担当した。まず委員会における議論の土台作りとして、協会が果たしてきた技術的役割について杉山(日本テトラパック)、辻井(日本紙パック)両技術委員、青島元事務局長には過去の会費改定の背景や経緯そして椿山元事務局長(後に会長理事)には乳機器協会との統合の経緯を委員会の席上でプレゼンして頂いた。新たに参加された方が多かった委員会のメンバーに、まずは当協会の過去の活動を知って頂くことで、将来のプランの策定に役立たたないかという目論見だった。
一方で事務局のたたき台ペーパーという形で、今回の移行を単なる移行ではなく「新生」日本乳容器・機器協会の足がかりとするために当協会のSWOT(強み、弱み、機会、脅威)分析の活用とその材料として、当協会全会員へのアンケートと絞りこんだ会員8社へのインタビューを提案した。これはそれまでの委員会での議論が、得てして「会員の協会の種々の活動に対する印象は支払い会費以下という評価ではないか?」という危惧や「新しい施策を行うためには会費の増額が必要、しかし会費の増額は会員数の減少という結果をまねくのではないか。」という負のスパイラルの議論を打破したい意図と、この段階であるからこそ、会員の率直な活動の評価と今後に関する要望を正しく把握するべきと判断したからである。
この提案は委員会での議論を経て、正副事業企画委員長会議で承認を受け、会長理事名で正式な依頼という形で実現し、同年10月から11月にかけて実施された。インタビューについては当協会の活動に各委員会への委員の派遣というような具体的な形で関わって頂いている会員から4社、そうでない会員から4社という形でバランスを取り、インタビューは私が行った。結果はこの手の質問には日本人は一般的に「差し障りのない」返事をする傾向があるというバイアスを引いても、評価は一部委員の危惧にも関わらず、おしなべて高く、特に乳等省令に関連した技術的知見の高さや、関連する情報提供力については今後も期待するというコメントが多かった。このインタビュー及びアンケートの個別具体的な結果は公表しなかったが、総論としては事業企画小委員会での議論を経て平成21年度答申には反映させた。

一般社団移行に向けたトライアンドエラー

一般社団移行に向けたトライアンドエラーここで少し特例民法法人(当協会は当時これに該当している)と一般社団法人の財務管理の違いについて私見を述べておきたい。特例民法法人とは2013年(平成25年)11月30日までの従来の民法法人、つまり社団法人日本乳容器・機器協会が一般社団法人日本乳容器・機器協会に移行するまでの「猶予期間」と考えて頂ければよい。財務的にはこの期間の間に今迄の「予算主義」つまり予算を立ててこれを正確に執行するという行政官庁的な手法から、企業会計に準じた損益計算書と貸借対照表をベースとした管理に移行を求められたわけだが、それまでの民法法人では予算を未消化のまま繰越金として「ため込んで」いることは税務上の優遇措置からいっても問題とされ、例えば厚生労働省は2010年(平成22年)11月、N厚生労働大臣の時には食品安全部長名で、管轄の全ての特例民法法人宛に「特例民法法人の内部留保の水準の適正化等について」という文書を発出し、そこでは正味財産期末残高÷経常費用の指標である内部留保率が30%を超えている法人にはその解消方法を2011年12月までに報告を求めている。

ところが一般社団法人移行後は企業会計に準じて、収益性と流動性を改善することはむしろ必要なことであるから、健全なレベルの内部留保率は問題にならずむしろ望ましいことである。つまり内部留保率の評価のポジネガは一般法人移行前後でまったく逆転するわけである。そして民法法人時代に「ため込んだ」内部留保は承認を受けた公益目的事業に振り向けることが求められるが、移行後の健全な内部留保レベルは「正当な企業努力」の結果として望ましいということになる。従って現在内部留保率は協会の財務上のパフォーマンスの指標として使われている。
前年度の一般社団法人への移行方針決定を受け、担当官庁である内閣府公益等認定委員会の担当官と面談やメールよる打合せを開始したわけだが、そのなかで判明したのは当協会の財務上の舵のとりかたの難しさだった。まず当協会は「貧乏」と表現したように財務基盤はかなり脆弱である。当時の年間収入規模は殆どが会費で850万円から950万円程度でその殆どが会費収入だった。私が事務局長時代は、お恥ずかしながら、単年度決算は殆ど赤字であり、その赤字の補填は2005年(平成17年)の日本乳機器協会との統合時の寄付金約300万円を少しずつ取り崩してきたというのが実状だった。
そのなかで当協会が2008年(平成20年)度から「爪に火を灯す」思いで行ってきた50周年記念事業のための特定引当資産、そして協会創設時に必要とされたとされ、そのまま綿々と継承されてきた基本金83万円まで、このままでは公益目的財産額に含まれ、公益目的事業として支出が求められる金額に含まれるということが判明した時は、正直「小さくてまじめで貧乏な」当協会が何でこんな仕打ちを受けなくてはいけないのかという気になったりもした。
つまり内部留保をなるべく減らすというという現行の民法法人に課せられた課題と、単年度赤字の脱却というある意味で「うらはらな」課題の両方を達成しながら、移行後の公益目的事業の原資も確保しつつ、かつ50周年記念行事も実施しなくてはならないというトリレンマに対する取組が求められたわけである。

「苦あれば・・・・」

当協会をとりまく環境の変化とそのための対応の選択肢しかしこういった状況を嘆いていてもしようがない。これらに対する施策を盛り込んだ事務局案を事業企画小委員会で議論して頂き、2010年(平成22年)3月に下記の内容からなる2009年度(平成21年度)答申として取りまとめた。

1. 当協会をとりまく環境の変化とそのための対応の選択肢

当協会の外的環境が大きく変化するなかでこの機会を捉えて当協会の一般社団法人移行後の「あるべき姿」を縮小、現状維持、拡大の3つの選択肢を具体的に挙げたうえで、会員におこなったアンケートやインタビューの結果を踏まえて、一般社団法人移行までは現状の維持及び改善に努め、移行後は拡大を図るべきとした。

2. 2010年度(平成22年度)以降の一般社団法人移行への手順

―2010年度(平成22年度)に現行の特例民法法人としての定款を変更して不特定多数への普及活動を可能にする。これは特例法人時代から公益目的事業を行い、一般社団法人移行後も継続事業として行うことを可能にするためである。特例民法法人としての定款変更なので理事会、総会の承認のうえ厚生労働省に認可を受ける。
―公益目的事業として2010年度(平成22年度)からオープンセミナーを実施し、継続事業として一般社団法人移行後引き続き実施する。
―一般社団法人への移行認可申請を2011年度(平成23年度)に行い2012年度(平成24年度)から一般社団法人に移行する。

3. 財務基盤の強化と会費制度の見直し

―第1段階としては即効性のある基本金の取り崩しを可能にする基本金規程等の創設を行い可処分資産の増加を可能にする。会費規程を改正し賛助会員の入会金を廃止し入会しやすくしたうえで、2010年度(平成22年度)には密接な関係のある業界団体や会員共通のお取り引き先をフォーカスした賛助会員誘致活動を行うことで結果的に会費収入の増加を図る。
―会費制度改定については2011年度(平成23年度)には行わず、2012年度(平成24年度)の一般社団法人移行時からの実施を目標に事業企画小委員会でその内容について議論を重ねる。

4. 乳機器部会の活動の強化

―オープンセミナーの開始に伴い乳機器部会独自の少人数ラウンドテーブル方式の会費制のセミナーを創設する。

5. 50周年記念行事

―2011年(平成23年)11月に迎える当協会の50周年記念行事は平成2012年(平成24年)に予定される一般社団法人として初の総会と同時開催とする。またこの総会で2期4年を終える現会長会社から新会長会社への交替を行う。
―50周年行事引当資産の管理規程を新設し2010年度(平成22年度)から適用する といった内容で他にも「継続性のある協会運営体制ルールの構築」、「会員に対する情報提供活動の向上」、「広報活動の強化による当協会の存在感アップ」を含んだ盛りだくさんな答申を平成22年3月に事業企画運営委員会に提出した。その承認を受けた後理事会、総会において採択して頂いた。若干のメンバーの交代はあったが、事業企画小委員会の皆さんとは事務局案をチェックして頂いて、その後その内容を反映させた再校で議論するという作業を最終の「てにをは」まで含むと10回近く繰り返した。この答申が当協会の一般社団法人移行とその後の当協会のグランドデザインを示したもの、そしての作業の進捗管理の具体的なマイルストーン(里程標)もとなりえるのではないかというのが私の目論見だった。

第5回「ルビコン川を渡る」

ルビコン川を渡る

この言葉はローマの共和制末期にジュリアス・シーザーが元老院の命令に背いてルビコン川を「賽は投げられた」と言って渡りローマに攻め込んだことから、後戻りのできないような重大な決断・行動をおこなうことを意味しているようだが、2009年(平成21年)度の事業企画小委員会の答申と関連する議案の2010年(平成22年)5月26日に開催された総会における採択は日本乳容器・機器協会にとってまさしく「ルビコン川を渡る」ことだったと思う。もう後戻りはできず、事務局はこの答申の進捗を具体的に進めることが求められていたわけで、個人的にもここから2012年(平成24年)4月1日の一般社団移行までが胸突き八丁の時期だった。

公益目的事業

ここで前回も触れた公益目的事業についてもう一度おさらいをしておきたい。公益目的事業とは公益法人認定法第2条第4号の規定に依れば、内閣府公益認定等委員会が「個々の事業が別表各号の23項目のいずれかに該当しているか」を検討したうえで、かつ「特定多数の者のみの利益増進になっていないかどうか」を検討して判断することとなるとされている。ちなみに当協会のオープンセミナーは別表六の(公衆衛生の向上を目的とする事業)に該当し、当協会の現行定款第4条(2)及び(3)で規定された普及啓発事業である。この事業は旧社団法人時代にはなかった「普及啓発」の文言をいれた書きぶりに特例民法法人時代の旧定款第3条及び4条を変更することで、「旧主務官庁(厚生労働省)の監督下の公益目的事業」として実施することを可能とし、一般社団法人移行後もこれを継続するかたちで「継続事業」として実施されているわけである。2009年(平成21年)末から2010年(平成22年)初頭にかけ、厚生労働省の担当官、内閣府公益認定等委員会の担当官に非公式に書きぶりのレビューを受けた上で、2010年(平成22年)5月26日の総会で承認して頂き、登記を行い同7月12日に厚生労働省から認可を受けた。これによりこの2010年(平成22年)度からの特例民法法人として公益目的事業の実施が可能となった。従って公益目的事業としてのオープンセミナーは特例民法法人時代に2回、一般社団法人時代5回実施されており、今年度の第8回で公益目的事業としては支出が終了する。最初の「言いだしっぺ」としては感無量である。

オープンセミナー

実はその具体的な内容については2010年(平成22年)年初から検討を始めていた。同年5月18日の事業企画小委員会にはたたき台として日本乳容器・機器協会第1回オープンセミナー企画書(仮)を提出し、討議して頂いた。具体的な内容としては、まず参加対象を公益目的事業の趣旨に則り、ホームページからの不特定多数の応募を可能とすること、参加人数は80名から100名とすること、第1回テーマは「企業と消費者にとって真の安全と安心とはなにかを検討する。」とすること、厚生労働省担当官を来賓として迎えスピーチしてもらうこと、会場は従来の「業界団体色」を避けセミナーやコンフェレンスの専門会場の東京コンフェレンスセンターとすることなどを提案し、概ね同意を得た。
スピーカーはグローバルな経験があり、当時内閣官房や消費者庁の法令遵守顧問を務めていた弁護士の國廣正氏と消費者と企業の品質問題に関する(特にメディアとの)コミュニケーションの観点からのスピーカー1名とし(後に毎日新聞記者小島正美氏に決定した)これをベースに準備を進めていくこととした。実は國廣氏とは全く面識はなかったが、同年日経ビジネス4月19日号の「今週の視点」での企業の危機管理の観点からの当時のトヨタ自動車や花王エコナのリコール問題に対しての発言が非常に示唆に富むものであったので、事務所のホームページの問合せ欄から当協会の概要とオープンセミナーの趣旨をメールし、その後面談させて頂いて、講演の了承頂いたという経緯であった。一方の小島氏については、発酵乳乳酸菌飲料協会のセミナーでの講演を拝聴させて頂き、当時の森田専務にご紹介頂いたように記憶している。このように7回のオープンセミナーの内私は5回程その企画に参画させて頂いたが、スピーカー探しはたいそうな言い方で恐縮だが、広く「アンテナ」をはり「知的好奇心」を絶やさないというモットーで行ったように思う。
なお当初は無料開催で考えていたが、事業企画小委員会での議論のなかで「他の行事の有料化や参加費の上方調整のなかでオープンセミナーだけを無料というのは整合性に欠ける」という論点からシンボリックだが¥1,000の会費を徴収することとした。
第1回オープンセミナーは2010年(平成22年)11月18日に開催され、100名近くの方が参加し、会員外の参加者の割合も高く成功裡に終了し、その後のオープンセミナーの「基本形」とすることができた。参加者に行ったアンケートの評価も高く、来賓の厚生労働省担当官も最後まで席を立たず、コーヒーブレイクでもスピーカーや鈴木会長理事と懇談して頂き、企画担当者冥利につきる成果をあげることができた。

乳機器部会懇話会の開催

前年度の答申の「乳機器部会独自の少人数ラウンドテーブル方式の会費制セミナー」は2010年(平成22年)10月22日に第1回乳機器懇話会として6社13名参加で具現化した。第1回幹事の岩井機械の方々には「講師の選定などの懇話会の内容は幹事会社、アゴ、アシ、パシリは事務局」という、通称事務局長ルールを図々しくご了解頂き大変なご尽力を頂いた。その成果でこちらもその後の乳機器懇話会の「基本形」とすることができた。

賛助会員増強活動

事業企画小委員会のメンバーの方々の絶大な協力を得て2010年(平成22年度)年度末には9社3団体の12会員の新規加入を実現することができた。事務局は当協会が賛助会員とさせて頂いている日本乳業協会、全国発酵乳乳酸菌飲料協会、全国飲用牛乳公正取引協議会の3団体を担当し、当協会の賛助会員になって頂けないかというお願いを差し上げ、快く受諾して頂いた。当時の日本乳業協会の専務理事に、鈴木会長理事名の文書持参でお願いに上がった時、当協会の賛助会費が日本乳業協会の賛助会費の2分の1であることが話題になり、つい「半返しでお願いできかないかと・・・」と口を滑らせたところ大笑いとなったことなどは今から思えば良い想い出である。

「日本乳容器・機器協会の会費制度及ぶ関連する諸制度に関する答申書」

 それ以外の事項についても事業企画小委員会で議論を重ねた。3回目の答申となるのでPDCAの回し方も軌道に乗ってきて、2011年(平成23年)3月22日付の2010年(平成22年)度答申に向けて、以下の項目立てで書きぶりを含めた最終確認を進めていた。

1. 答申の背景
2. 当協会の事業及び財政規模
3. 会費制度全般にわたる提言
4. 一般法人への円滑な移行
5. 継続性のある協会運営の確立
6. 情報公開による情報の透明性の向上と会員に対する情報提供活動及び非会員に対する普及啓発活動の強化
7. 50周年行事
しかし、ここであの3月11日を迎えることになるのである。

第6回「災害は忘れたころに・・・・」

2011年(平成23年)3月11日14時46分18.1秒(JST)

 この日私は日本乳容器・機器協会事務所で事業企画小委員会の3月22日付の答申の「てにをは」等の最終チェックを行っていた。その以前の中小規模の地震の続発に「いやな感じ」がしないわけではなかったが、3月24日の正副委員長会議におけるプレビューと続く3月29日の事業企画運営委員会が当該答申の「正念場」ということもあって、その準備作業に忙殺され、「いやな感じ」を頭の隅に片付けてしまっていた。
 揺れが始まった途端、これは尋常な程度ではないと感じたが、いつもは冷静な事務局のSさんが事務所の会議用のテーブルの下から、「福田さん」と大声で叫んでくれて、同じようにもぐり込んだ直後に茶器などを入れた戸棚が倒れたりガラスが割れたりし始めた。乳業会館の各階の事務所からも悲鳴やガラスの割れる音が聞こえ、これは大変なことになったと思った。
 なんとか初期の揺れが収まった後Sさんがすぐテレビのスイッチを入れてくれたが、そこに映しだされたのはすぐ近くの九段会館の天井崩落と東京湾のガスタンクの火災で、東北の悲惨な状況はまだ報道されていなかったと思う。緊急事態なのでまずは家族と連絡を取ろうとしたが、通常回線も携帯も全く通じなかった。Sさんのほうは大阪のご家族やご主人から受信があったが、私の方は受発信ともだめで、とりあえず目いっぱい携帯の充電をして機会をまつことにした。
 後で聞いたところによると九段下の一帯は比較的地盤がよく、建物のなかで状況を把握しながら待機するという選択肢は結果的にベストだったようだ。17:00を過ぎたあたりで交通機関が全く動いていないことを確認し、Sさんとワレモノの片付け、余震の被害防止策を実施し、Sさんが歩行経路をネット上で確認してくれたので、とりあえずの共通の目的地である渋谷を目指して一緒に歩きだした。しかし道路は同じような考えの人々で一杯の状況で通常より時間がかかり、渋谷に到着したのは20:00前と思う。
 ここでSさんと別れ、自宅についたのは20:30頃だったと記憶している。家の明かりがついていることにほっとして自宅のドアを開けると、それまで全く連絡がとれなかった妻と娘がそれぞれ少し前に勤務先から徒歩で到着したところだった。Sさんからは23:00近くに無事自宅到着のメールをもらった。テレビは東北の悲惨な津波被害の状況を繰り返しており本当に長い1日となった。

混乱を乗り越えるために

5月2日発行の乳容器・機器協会だより
平成23年5月2日号協会だよりより   
5月2日発行の乳容器・機器協会だより

 翌日は事務所へ行かず、鈴木会長理事に携帯から昨日の報告と今後の対応についてメールを入れ了承してもらった。その後は電力の供給制限も始まったため世の中が騒然とした雰囲気に包まれてきた。  2011年(平成23年)3月24日には、予定されていたことではあるが、会長理事、副会長理事の方々に集まって頂いて、協会としての震災対応について基本線を確認し、また平成22年度答申案につき非公式の了承をとりつけた。続いて東北大震災に被災し亡くなられた方々への黙祷で開始した3月29日の事業企画運営委員会で了承を頂いた。最後に同様の手順で開催された4月12日の理事会において全出席理事一致で採択され、あとは5月25日の第50回通常総会での採択を待つだけとなった。ここで一番のポイントは恒例となっている懇親会で、巷ではI東京都知事の「この時期に花見をしている不逞の輩・・」発言もあったが、私はむしろ委縮するのではなく、当時のツイッターを賑わしていた「ヤザワ作戦」つまりロック歌手の矢沢永吉の名前からきた、今こそ経済を元気にするために委縮しないで少しぜいたくをしようという呼びかけの方向性が被災地の復旧復興にもつながるのではないかと思っていた。

5月2日発行の乳容器・機器協会だよりでは東日本大震災の被災者の方々へのお見舞いのメッセージの次に「新生日本乳容器・機器協会に向けて」の標題で事務局長名の総会採択予定の内容の紹介も行い、採択内容に関する会員の理解を深めるようにした。一方で悩ましかった懇親会については、当時の日本乳業協会の専務理事に日本乳業協会としての対応をお伺いしたところ、「変に委縮しないで、この時期こそ日本を元気にするという視点で行くべきだと思っています」というまさしく「我が意を得たり」のお返事を頂いて、細かい内容のつめは別にして懇親会も実施という方向で進めることとした。

協会事務局としての対応

 少し話が前後するが3月24日会長理事・副会長理事の会合での非公式合意に基づき事務局は以下のような具体的な対応を行っている。まず当協会の領域である安全衛生の分野で大震災に関連して会員間で共有すべき情報(例えば厚生労働省所管の製造地表示の期間限定の特例措置)については事務局から積極的に全会員に発信した。しかしながらトイレットペーパーがスーパーの店頭から消えるような事態が起こるなかで、牛乳や飲料の容器の需給に対しても、一部で不安があるような情報が錯綜し、地方自治体や一般のマスコミからの本件に関する問合せもかなりあったが「当協会の守備範囲は安全衛生であり、容器の需給について責任ある回答をできる立場にはない。」という趣旨で徹底した。今だから話せるが「電話インタビューでもよいから番組に出演してくれ」という類の依頼も複数あった。企業における危機管理の「初めの一歩」は窓口を一本化して、トークを統一することとだとというトレーニングを過去受けていたことがこんなところで役にたったようだ。厚生労働省以外の中央省庁やマスコミの大所からの問い合わせで、取扱が微妙なものについては鈴木会長理事に協会としてではなく出身企業の立場でインタビュー等の対応をして頂いた。

第50回通常総会

「復興アクション」のロゴ

 通常総会と懇親会を通じて「平常心で被災者の方々や被災地を思いやる」というトーンを強調するために、総会は開始時の参加者全員による黙祷のみならず、当時政府広報が推進していた「復興アクション」のプロモーションビデオを、参加者の方々に見て頂き、また正副会長理事や事務局メンバー、そして懇親会のコンパニオンの方々まで「復興アクション」のロゴを身につけ、その思いを形にする試みも行った。

 事業企画小委員会答申に基づく議案として、採択をお願いした基本金規程による基本金の事業費への振替、2011年度(平成23年度)の一般社団法人への移行プログラム、会費制度の改定の事業企画小委員会による検討と答申、継続性のある協会運営に向けた諸施策、50周年行事のありかたと50年史の作成、会員に対する情報提供活動と非協会員への普及啓発活動の相乗効果による協会の社会的存在感の向上等は会員全員一致で承認頂いた。

 私はこれで一般社団法人への移行とこれによる新生日本乳容器・機器協会への出発(たびだち)に関する総論部分はほぼ完了したと判断していた。しかし残されている具体的な各論部分は新定款の作成、公益認定等委員会への移行申請、財政状況の改善と会費の改定、50周年記念事業など、どれも一筋縄ではいかない課題がまだ山積みだった。

第7回「画龍点睛を・・・」

龍に瞳を入れる

 「画龍点睛」という諺の「睛」は瞳という意味で「点睛」とは動物の絵に最後の瞳を入れて完成させることを意味するようだ。中国春秋時代の梁に張という絵の名人がいて、ある寺に龍の絵を描き、最後に瞳を入れたところ、突然龍が天に昇ったところからこの4文字熟語はできたとされているが、転じて最後のつめが甘いことを「画龍点睛を欠く」というようになったようだ。日本乳容器・機器協会の2011(平成23)年度、つまり2011(平成23)年4月から翌年の2012年(平成24)年3月の1年間はまさしく「龍に瞳を入れる」作業を、但し名人などではなく常人の私は龍を天に昇らせるためにトライアンドエラーを繰り返した1年間だった。

この年度の課題

 この年度の課題をもう一度整理しておこう。
1. まず一般社団法人への移行手続きがあった。そのためには各種必要書類を整え、2011(平成23)年夏頃を目途に内閣府公益認定委員会に電子申請を行って当該年度中に内閣府から移行認可を受け、翌年度早々の登記等の移行作業に繋げなければならなかった。
2. 会費改定についての議論を事業企画小委員会で深め、小委員会におけるコンセンサスを醸成した上で、その結果に関する事業企画運営委員会、理事会における議論のための必要な資料を「納得できるロジック」で作成し、翌年度の総会で最終承認を頂くための導線とすることが必要だった。
3. 目論見通りにいけば一般社団法人移行後最初の2012(平成24)年5月開催予定の総会にタイミングを合わせて実施予定の50周年行事に向けた、50年史作成を含む種々の準備を進めなくてはならなかった。
4. 2011(平成23)年度で2期4年を終了する会長理事の交代に向けた調整も進めなくてはならなかった。
5. 最後に技術的課題ではあるが、今後当協会の立ち位置を大きく左右することになる乳等省令の見直しについての協会内の意思統一のための調整にも取り組まなければはならなかった。
どれをとっても「一筋縄」では進捗しない課題であり、また微妙に関連する部分もあり協会としてもまた個人的にもまさしく「正念場」の年度であった。本稿では一番の「力仕事」であった移行手続きについて少し詳細に述べてみたい。

一般社団法人への移行作業

 まず一般社団法人の定款案については2011(平成23)年5月25日の社団法人としては最後となった総会で一般社団法人への移行を前提として採択して頂いていた。この定款案の作成に当たっては公益認定等委員会担当官との非公式のご相談に加え、移行について先行された日本乳業協会の新定款や規程を参考にさせて頂いた。社団法人としての現行定款との比較表も作成し会員の方の理解を深める努力も行った。
併せて一般社団法人への移行によって当協会の運営に何が求められるかを以下のように説明する機会を理事会や事業企画運営委員会で頂いた。
つまり会社法が企業に求めているものと近似していて、社員総会と理事会の関係は株主総会と取締役会と考えられる。また株主総会の「活性化」から考えれば、議案の一括採択や「異議なし」採択は一般社団法人の総会においても好ましいことではない。同様に企業においても監査役が取締役と取締役会に対して拮抗力としてその役割を求められるように、一般社団法人における監事の役割もより重要視されるようになったわけである。理事会や総会で投票記録を残し、総会における理事・監事の選任を一名ずつ採択するのはこの辺りが背景となっている。
一方具体的な申請の準備については各種の書類の準備や確認作業を事務局業務の空き時間に進めながら、内閣府公益認定等委員会に電子申請用のIDとPWの届出を行い公益認定等委員会の申請用のページにアクセスを可能にした。8月24日15:04に電子申請を行ったが、翌日には担当官(今迄非公式にご相談していた方)から直接電話を頂いて、公式に当協会の移行申請を担当することになった旨の連絡と提出書類の不備や追加書類の指示を受けるという状況で、「これはこの先が思いやられる」と感じたが、電話や面談を通して修正点や追加書類の準備を進め、10月19日には電子的に修正を行った。その後も定款の書きぶり等の指摘に対応を進め翌2012(平成24)年2月16日に「移行を相当とする」という当時の野田総理大臣宛の内閣府公益認定委員会の2月15日付答申が内閣府公益認定等委員会のホームページに公表された。
これで喜んではいられない訳で目標としていた2012(平成24)年4月1日の登記に向けての作業を早速開始した。この4月1日というのは個人的にも思い入れがある日付である。つまり登記手続き上は特例民法法人(移行前の法人)が解散登記を行い、一般社団法人について設立登記を行うこととなる。ところが事業年度の途中に登記を行うと、登記を行う事業年度を特例民法法人としての期間と一般社団法人としての期間区分した計算書類が必要になるわけである。これは移行を計画していた特例民法法人にとってはある意味「余分な」ワークロードとなるので、殆どが4月1日の登記を希望していた。ところがこの年の4月1日は日曜日だった。このまま行くと例えば4月2日に登記をすると4月1日1日分とそれ以外の翌年3月までに事業年度を区分した計算書類が必要になるということになってしまう。しかし公益認定等委員会に本件についてはかなりの数の問合せがいったようで、最終的には内閣府から法務省宛に4月1日に日曜日であってもこの移行登記の受付をしてほしいという文書が発出され、この日は特別に移行登記申請のみを受理するということになった。お願いした行政書士によると、当日は通常は行っている電子申請は中止されて窓口申請のみとなり大変な混雑だったそうである。





その後登記完了後の届出等を経て一般社団法人への移行手続きは完了した。
この時期は移行手続だけを進めていたわけではなく最初に述べた他の課題にも並行して取組まなくてはいけないという状況で、まさしく個人的にも正念場を迎えていたわけである。(次号へ続く)

福田 利夫(ふくだ としお)
1949年(S24年)生まれ 中央大学法学部法律学科卒業、1976(S51年)年テトラパック株式会社(当時)入社、営業、マーケティング、品質保証、環境、コミュニケーションズでマネージャーを務める。2005年(H17年)独立し福田利夫事務所を創設し現在に至る。中小企業診断士、通訳案内士(英語) 2005年(H17年)法人整備小委員会委員長、2008年(H20年)事務局長、2012年(H24年)シニアアドバイザー 2015年(H27)−顧問
ページのトップへ▲
  一般社団法人 日本乳容器・機器協会
〒102-0073 東京都千代田区九段北1-14-19 乳業会館6F
TEL 03-3511-7878 FAX 03-3230-0611